桜の花が咲く頃に                         

祥子が休日に河原町に来たのは、半年ぶりだった。幼い頃から京都に住む祥子にとって、河原町は細い路地に沿って連なる小さな店まで熟知した通い慣れた場所だった。祥子は河原町に行き、そこでしばらく時間を過ごすと今までの楽しい思い出が心の中で甦り、そのことで心が癒されるのだった。特に思い出されるのは、石井と過ごした大学一回生の頃のことだった。
「そう言えば、石井さんったら、突然、強い雨が降り出して、私が傘を差し出したら、そんなことは恥ずかしいと言い出して、そのまま濡れ鼠になったわ。動くことができなくて、仕方なく一見様お断りの料理店の軒先で雨が止むのを待ったんだったわ」

祥子は大学を卒業して市内の会社に勤務し始めて4年が経過し、多忙な日々を送っていた。祥子は努力家で、しかも会社の仕事をできるだけ早く覚えようと考えていたため、納得できないことがあると遅くまで会社に残り調べものをしたりした。そのような祥子を上司は信頼して、3年して部下の女性をつけた。石の上にも三年と彼女なりに頑張ったお陰だったが、また新しい課題が与えられた感じだった。そんなとき、彼女はつぶやくのだった。
「石井さんも頑張っているんだから、私も頑張らないと。そう言えばあの新人さん、京都での生活は始めてなんですって言ってた。今度、一緒に河原町でも行こうかしら」

祥子が四条河原町からそれほど遠くない名曲喫茶で休日の時間を過ごすようになったのも、石井の影響だった。
「黒ぶち眼鏡でベストを身に付けたマスターが突然注文を取りに来るのが面白くて、ふたりで何度も行ったわ。石井さんはシューマンのピアノ協奏曲が好きで、リパッティのを一緒によく聞いたっけ」

今日も店に入ると、突然マスターが現れ注文を取りに来たので、祥子はミルクコーヒーを注文し、シューマンのピアノ協奏曲をリクエストした。それを聞いて、マスターは言った。
「その曲なら、あちらのお客さまが先ほどリクエストされましたので、じきにかかりますよ。他にリクエストがあれば...」
マスターが示す客を見るとそれは大学1、2回生の時に同じクラスだった安城だった。安城は、大学時代はもっぱら、ギターでロックやジャズの演奏をしていたので、祥子にとってはこの場所に安城がいること自体が思いも寄らないことだった。何度か話しただけだったが、懐かしさから祥子は安城に声を掛けた。

「お久しぶりね。どうしているの。あなたはふるさとの名古屋で会社勤めをしていると聞いたけど...」
「あっ、森山さん、突然出て来て、まるでここのマスターみたいじゃないっすか。俺は元気ですよ。今日は久しぶりに時間に余裕ができたので、大学時代の懐かしい思い出のスポットのいくつかを訪ねてみようと思って、京都に来たんだけど...。あっ、シューマンのピアノ協奏曲が始まった。やっぱり、この曲は高月さんも言っていたように、リパッティがいいよね。森山さんはリクエストしないの。なら、ショパンのバラードをコルトーで聴きたいから、リクエストを...」
祥子は思わず微笑んだ。
「あなたは学生の時と少しも変わらないわね。でも音楽の好みは変わったのかしら。大学時代、あなたは四条通近辺のライブハウスでのロックの演奏会を聴きに行っていたようだけど。名曲喫茶であなたに会うとは思わなかったわ。ねえ、シューマンを聴いたら、そのあとはあなたの思い出のスポットというのに案内してくれない」
安城はしばらく驚いた顔をしていたが、いいっすよと言った。

最初に安城は、祥子を連れて円山公園に向かった。桜が5分ほど開花していて見物客が多くいた。安城は、奥へと進んでふたりきりになることを敢えて避けた。何気なく、まだ開花していない枝垂れ桜の近くの自動販売機で缶ジュースを買うと、すぐ近くに腰掛けて話し始めた。
「学生主催のオリエンテーションで仲良くなった、高月さんと石井と3人でお花見に行こうとここに繰り出したのさ。桃園の盟じゃあないけれど、これから3人仲良くやろうと誓い合ったのさ。高月さんだけ20才を過ぎていたけど、今日みたいに、缶ジュースで乾杯したんだ。高月さんは感じが出ないなあと言ってたけど」
「その時、石井さん、何か言ってた?」
「オリエンテーションの時から君のことが気になっていたようだ。しきりに君のことを讃えていた。でも、何を言ったかは余り覚えてないなあ。宇宙一だとか、当時満開だったこの枝垂れ桜より美しいと言っていたと思うけど、言葉で言い尽くすことができないほど、森山さんのことが気に入ったようだった」
「いやだわ、安城君たら...」
祥子が赤くした顔を見られまいと八坂神社の方へと歩き出したので、安城も続いた。

次に安城が案内した場所は意外にも、祥子が石井とよく行った京都府立植物園だった。植物園の芝生の広場で腰を下ろした安城は言った。
「貧乏学生の行くところと言ったら、お金のかからないところになりますね。でも、京都にはそんないいところがたくさんある。森山さんも石井とここによく来たんじゃない。さっき、森山さんは、俺が名曲喫茶にいるのが意外って言ってたけど、俺としては、石井を差し置いて、森山さんとこうして歩いているのが意外だよ。最近、石井から便りはあるの」
「それが...。3年前に便りがあってからはないの。でも、私としては、最後に会ったときのことを信じ続けたいの。20年たったらまた会おうという約束を」
祥子が涙ぐんでいるように見えたので、安城は愛しい人の肩に触れたいと手を伸ばしかけたが、別の話をして感情を押さえた。
「でも、20年なんて...。石井もそうだけど、高月さんはそれ以上に変わっているよ。暗い浮き世とはおさらばさ。俺は北アルプスで荷物の運搬をして生計をたてると言って、昨年消息がわからなくなったんだ。きっとどこかの山小屋で生活していると思うけど...」
「何かあったの」
「安城、若い頃の苦労は買ってでもせよだよ。それに山はじっとして動かないから信頼できるんだよ。きみもいつかわかる日が来るって言っていたなあ。どうも人間関係がうまくいかなくなったようだ。俺としては、高月さんは命の恩人と思っているし、クラシック音楽の話をまた聞かせてほしいと思うけど、しばらくは無理みたいだ。だもんで、ひとりで、高月さんがよく行ってたあの店に行ったんだ」
「命の恩人?」
「そうなんだ、卒業間近に俺が自転車に乗っていて事故を起こしたことを覚えているかい。実は、あの時不思議な体験をしたんだ」
「でも、あなたたちふたりとも次の日には学校に来ていたじゃない」
「あの時、俺は臨死体験をしたんだよ。死に神が手招きしてさ、危うくそちらの方へ行きかけた時、高月さんの声が聞こえて...。そう言えば、高月さん、死に神に説教していたなあ」
「説教?」
「そうさ、彼の人生は、明るく開かれている。一瞬の輝きだけに満足して、終わるというのはどう考えてもおかしいと思うって死に神に高月さんが俺のことを話したんだ。そうしたら...」
「そうしたら...」
「意識が戻って、病院のベッドにいるのに気が付いたというわけさ」
春先の冷たい風に吹かれて、古傷が痛み出したように安城は顔を顰めた。
「少し歩かないか。この近くの桜の花が見頃だと言っていたから、行ってみないか」

ふたりは植物園を出て、賀茂川べりを時にはベンチに腰掛け、ゆっくりと歩いていると、夕刻の陽がさらに傾き夜の帷が下り始めた。安城は少し張りつめていた気持ちがゆるんで、突っ張ることをやめて、思わず祥子にやさしい言葉をかけそうになったが、それを無理に押しとどめて言った。
「小さい時、やたら時間が経つのが遅かった気がする。でも、今は時があっという間に過ぎて行く気がする。なぜだと思う」
「さあ...。なぜかしら」
「それは、ある時期を過ぎると人は目的を持って生きるようになるからだと思うんだ。そうなると時間を持て余すようなことはなくなる。ある時点でここまで達成しようと考える。そうすると、時は早く流れる。また、自分本意で人生を歩んで来たのが、人と共に歩んで行かなければならなくなることもその理由のひとつだと思う。人生は短いんだから、もっと現実的になれよと言って君の手を取るようなことはしないけれど、目的を見失いそうになったら、いつでも相談に乗るから、これからもよろしく」
そう言って安城が右手を差し出すと祥子は心を込めて
「ありがとう」
と言って、右手でその手を握りさらに左手を添えた。

安城が午後9時の新幹線で帰るというので、祥子は駅まで一緒に行くことにした。
「今日は楽しかったかい。んなわけないよな。でもさ、おれは楽しかったよ。だって好きな女性と時間を共有できたんだから」
そう言って安城はウインクしてみせた。
「おれも高月さんも森山さんのことが好きだったんだけど、石井のことを思うと懇意になろうとは思わなかった。だって森山さんが石井といる時、本当に幸せそうに見えた。それを侵すことはとても悪いことのように思ったし、今日、何度か再会の約束を取ろうとしてやめたのも、そのせいさ」
安城は自分の膝をぼんやり見つめながら、つぶやいた。
「思えば、高月さんも森山さんのことが好きだったんだよ。でもどうしても諦め切れない。それで北アルプスへ行っちゃったんだよ。森山さんは自分で気が付いていないだろうけれど、何と言うか、放っておけないという気にさせるのさ。でも、君の心は石井のものということはみんなが知っている。そんな君に今の俺ができるものがあるとしたら、あと13年は少しだ。石井を信じて生きろと言うことくらいかな。でも大切な人生、そんなに時間を無駄にしていいのとも言いたいところだけれど」
「ありがとう、でも私、時々迷うことはあるのよ。本当にこのまま待っていれば、しあわせがやって来るのかと。でもあなたの励ましのお陰で、しばらくは頑張れそう。高月さんが帰って来たら、会いたいな」
「ははは、それを聞いたら、きっと高月さんすぐに帰って来るんじゃないかな。俺も3人でまた会いたい気もするし」
安城は別れを惜しんでいたが、しばらくして上りの電車がやって来たので乗り込んだ。

 

※ なお、この小説は、4.死地からの生還 7.盛夏に を読んでいただければ、より理解が深まると思います。

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