死地からの生還   
 

   安城が住む下宿は、いつものように玄関の格子戸が開いたままで、入口の叩きの上には住人の3倍ほどの数の履物があった。高月は、その最後尾に靴をぬぐと足を伸ばして廊下に上がった。安城の部屋は、2階で階段を上がってすぐのところにあった。階段は幅が広く、何十年にも亘って学生が頻繁に利用したためか、光沢があり、朝日が当たっているところは輝いて見えた。高月が、ノックをしても中から応答はなく、ドアに鍵が掛かっていなかったので、中に入り、いつものように炬燵に入りテレビを見ながら、安城の帰りを待った。入口のドアの向いにあるガラス窓は木製の枠にスリガラスがはめ込まれたものだった。窓を通して、明るい春の日差しが差し込んでいた。

 高月と安城は、ともに大学の4回生。入学してすぐにあった説明会で隣の席になり、2人とも誕生日が4月2日で(高月の方が2つ年上だったが)あることがわかり親近感を覚え親しくなった。その後、卒業を控えた今日まで途絶えることなく、安城の下宿を訪れたが、もうあと何回訪れることができるのだろうかと思うと高月は寂しい気分になった。いつもは2人の共通の友人があと2、3人一緒になって賑やかに時を過ごすのだが、3月になって就職先の会社の研修が始まり他の友人達はこの下宿にはもう来られないだろうと言っていた。安城も、明日から研修が始まるので、多分あとは卒業式の時くらいしか会えないだろうと言っていた。

 安城の下宿も今日が見納めかと思い、下宿の中を改めて見回してみた。4畳半の部屋の中には、炬燵の他に勉強机、冷蔵庫、テレビ(冷蔵庫の上に置かれていた)、洋服ダンスがあった。他に少し大きめのラジカセ、ギター、ギター用のアンプが置かれていた。ギターを見ながら、高月は思った。安城とは、いろんなことで話題を共有できたが、音楽の嗜好については合わなかったなと。安城は、ギター中心のポピュラー音楽、ロックや日本のフォークに興味があり、自分で演奏もした。一方、高月はクラシック音楽を主にレコードで聴き、楽譜はほとんど読めなかった。

 一度、安城に誘われて彼の友人のライブハウスでのコンサートを見に行った
(それは絶叫しながらギターを目一杯鳴らすものだった)が、高月が日頃聴いている音楽と余りに違うため、かえって新鮮でこういう音楽もあるんだと思うと、今までと違った音楽の聞き方が出来るような気がして、聞きに来た甲斐があったように思った。高月が、「こういう音楽もいいね」と言うと、安城は、「こういう音楽が最高なんですよ」と言った。

 テレビに飽きた高月は、テレビを消して横になった。少し寒かったので、上着を脱いで、炬燵から顔だけを出して天井を見つめていた。高月は、このところ睡眠時間が少なかったので、眼を閉じるとそのまま眠りについてしまった。

 夜の帷を抜けて、高月が以前訪れたことのあるライブハウスのドアを開けると、安城がピアノを引いているのが見えた。安城がピアノを引いているのを見て、高月は訝ったが、安城が一心に引いているのを見て、何を引いているのかと耳を澄ませた。シューベルトの遺作のピアノソナタだった。安城は、ギターを引いている時と違って感情を面に出さず、たんたんと引いていた。いつの間にか終楽章が終わり、それを機に高月は安城に歩み寄った。安城は言った。「クラシックもいいですね。高月さんも知っていると思うけど、このピアノソナタは遺作で、他にシューベルトの作品で遺作と呼ばれるものに、歌曲集「白鳥の歌」と弦楽五重奏曲があります。どの曲も悲しいが、美しい曲ですね」安城は続けた。「高月さんには、今まで言わなかったけど、実は私はこの曲が好きで一度全曲通して引いてみたかったんです。こんな立派な演奏ができて満足しています」

 高月が、ピアノの後に眼をやると黒い服を着た男が立っていた。服は、身体にぴったりとくっつき、皮膚のようだった。その男は、安城に話し掛けた。「さあ、君が望んだ通り、君の友人の前で君の友人の好きな曲を演奏させてやった。君が一生かかっても到達できない技巧も可能にした。これ以上望むものがない程のすばらしい演奏だった。もう思い残すことはないはずだ。仮に、君が今後も生活を続けたいのならそうしてもいい。だが、決して自分の思い通りにならないことを多く経験して、遅疑逡巡するだろう。仕事や恋愛がうまくいかなくて悩んだり、肉親や親友との辛い別れも受け入れなければならない。将来、そういうことに遭遇した時に、君は果たして耐えられるのか。それよりもいま最も輝いた自分を良い思い出として、私と一緒に旅立たないか」死に神だった。

 安城は、約束を守れと強要されていた。高月は、死に神に言った。「あなたは、自分の日々の努力で手に入れたものでない手品のようなものをすばらしい演奏と私が思うと思っているのですか。確かに以前、私は安城にこの曲を聴かせてこの曲のすばらしい演奏を一度聴いてみたいと言ったことはある。でも、安城が、私にこの曲を聴かせるためだけに生まれて来たのではないはずです。彼の人生は、明るく開かれている。一瞬の輝きだけに満足して、終わるというのはどう考えてもおかしいと思う」そして安城に言った。「わが友よ。これからもよろしくな」高月は、目頭が熱くなり安城の姿が見えなくなった。「安城、安城...」

 気が付くと、炬燵の中だった。それから1時間程すると安城は、帰って来た。頭に包帯を巻いていたので、高月は、どうしたのかと尋ねた。「車を避けようとして、自転車を電柱にぶつけてしまった。誰かが、救急車を呼んでくれて、病院で検査を受け、処置をしてもらったようだが、なかなか意識が戻らなかったらしい。戻らない意識の中で、僕は、高月さんが「安城、安城...」と何度も叫んでいるのを聞いてそれから少しずつ意識を取り戻していったようだ。病院の先生は、大事をとっての入院を勧めたが、明日から研修があることを言うと、頭痛や吐き気などの症状が出たら、すぐに救急車を呼んで、脳神経外科で診てもらうことを約束し、帰宅を許してもらった」高月は死に神の話しをしようとしたが、それを飲み込んだ。「卒業式の日に会えるかどうかわからないから、今日は派手にやろう。安城の明日からの研修に差しつかえがない程度に。それから無理しない程度に。じゃあ、今から酒と肴を買いに行こう」安城は、同意した。

 その後、2人は無事卒業し社会人となり、2年に1度位会って近況報告をしている。高月は、安城が下宿を出て1週間後に安城の下宿を訪ねた。ドアに鍵が掛かっていなかったので、中を覗いてみると、炬燵だけがぽつんと部屋のまん中に置かれてあった。「そう言えば、安城の下宿に最初に来た時も、炬燵だけだったな。この後に入る人のために、安城はこれを残して行ったようだが、安城のように、あっと言う間の大切な時間を充実したものにしてくれるといいな」高月はそう言って、4年間頻繁に通った友人の下宿を後にした。