喜多は普段は寡黙な学生だったが、秋子の明るさはふたりの間の垣根を取り払った。ふたりは時がたつのを忘れた。正午を過ぎても手を休めることはなかった。また、口も休まることはなかった。ふたりは、夢中になって自分の周りのことや最近聞いて心に残った話をした。中学時代の楽しい思い出、友人のこと、趣味のことも話した。秋子は、楽器を演奏することが好きで、ピアノやクラリネットを小さい時から習っていると話すと喜多は、音楽はもっぱら聞く方であるが、クラシック音楽は好きだ。今、興味があるのが山登りで、毎月一回、比良山に行っているが、大学生か社会人になったら槍ヶ岳や穂高に行って写真を撮りたいと言った。
「そう言えばこの間、いとこが山小屋であった話をしていたわ。面白いかどうかわからないけれど、少し話していいかしら」と秋子が言って喜多の方を見ると、喜多は笑顔で応えた。
「いとこは二十代の人だけど山登りばかりをしているの。ある日、北アルプスのある山小屋に泊まるとそこは「相部屋」だったの」
「限られた空間に登山客を入れなきゃならないから、仕方がないと思うな」
「5メートル四方の部屋に30名程の登山客が居て、隣には山小屋にたどりつく少し前にいとこと行動を共にした3人の内の2人の男性がいた」
「ということは、もうひとりは...」
「その日の登山でひどく疲労していたので、いとこはすぐに横になったの。ぼんやりした記憶の中で言い争う声が聞こえたような気がしたといとこは言っていたわ。ただの言い争いのようだったので、いとこは、そのまま寝続けたの。それから午後10時頃に目を覚まして横を見ると、2人の男性はそこにいなくてひとりの女性がもじもじしながらそこにいた。2人の男性の連れの女性だったの。見知らぬ女性が隣で寝ているなんて、いとこにとっては恐らく初めての経験だったのよ。それで冷静さを失っていたのね」
喜多は、その次の話がどうなるのかと思い、暗闇の中の赤外線ランプのそばで楽しそうに語る、秋子の横顔を見つめた。
「睡魔に負けて、その女性に背中を向けてまた続けてぐうぐうと寝ちゃった」
「なあんだ。でも相部屋だったら多くの男女が一緒にいるわけだから、ぼくなら、顰蹙を買うようなことをしようなんて思わないけどなぁ」
「いとこは、2段ベッドの下にいてしかもその女性が一番入口寄りにいたので、いとこが寝返りを打って目を開けるとひとりの女性が恥ずかしそうにしていて、いとこも疲れていたから、二人っきりで居るように思ったとも言っていたわ」
「わかった。わかった。それからどうなったの」
「いとこは夜中に目が覚めてとなりをもう一度見たんだけど、その女性はすやすやと寝息を立てて寝ていたわ。朝になっていとこが目を覚ますと、朝早くに連れの男性たちと山小屋を出発したようで、そこにはもう誰もいませんでした」