幼き日との別れ          

二郎がまだ子供の頃に、隣に森下さんのおばちゃんがいた。森下さんのおばちゃんには、ご主人と娘がいたが、二郎の記憶となると変な褒め言葉をいただいていたおばちゃんの記憶しかない。
二郎が鼻水を垂らしてそのままにしていると、おばちゃんは、
「まあ、なんてきれいなお顔なんでしょう。おかあさんに見てもらうといいわ」
と言った。
二郎が近くの公園で泥遊びをして服まで泥だらけにして帰宅すると、おばちゃんは、
「まあ、なんてきれいにしているの、でも近づかないでね」
と言った。
二郎が遠くに住んでいる友人のところで遅くまでヤンマ釣り(葉と根を取り除いたセイタカアワダチソウの茎のさきに縫糸を結び付け、縫糸の反対側にヤンマの雌を括りつけ、頭上で雌を旋回させると雄が寄って来る。近づいて来た瞬間に雌を地面に着地させると雄も着地する。その瞬間に捕虫網で捕まえる)をして遊んでいて、日が暮れてから帰宅すると、おばちゃんは、
「まあ、お早いお帰りで、毎日忙しいのね」
と言った。
おばちゃんは眼光が鋭く自分の意見をきっぱりと言ったので、威圧感があった。おばちゃんにそんなふうに言われると二郎は最初驚き、しばらくおばちゃんの顔を見てもじもじしているが、返事の仕様がないので自分の家に逃げ込んだ。

おばちゃんには、一人娘の正代がいた。近くの公立中学には通わず、隣の県にある中学まで通っていた。髪の毛は短くて派手なところはなかったが、清潔感があって気品があるので、二郎は正代に憧れを抱いていた。おばちゃんは、「正代には、早くからいろんなことを経験させたいから、遠くの中学に通学させているの。わたしは、クラシック音楽が好きだから、正代も何か楽器を引いてくれたらいいんだけど」
と言って、二郎と二郎の母親に吹奏楽器のカタログを見せていた。
二郎の住んでいる官舎は、数世帯が一つの建物に入る長家形式で、二郎の家と森下家は連なっていた。押し入れ同士が仕切りを挟んで向かい合っていたので部屋で大きな声で話しても隣には聞こえず互いのプライバシーは保たれていたが、仕切りはそんなに厚くないベニヤ板一枚だけだった。二郎が暗くなって帰宅すると懲罰のために両親は二郎を押し入れの上の段に閉じ込め、引き戸を閉めた。小学1年生の頃は真っ暗な闇の恐怖感で、二郎は泣き、両親に謝罪したが、2年生になると父親の携帯ラジオと懐中電灯を押し入れに持ち込んで、それを聞いたりした。官舎の狭い家で静かに自分の時間を過ごせるのは、押し入れくらいだった。日曜日の朝には、楽しみにしている番組があった。音楽の泉という番組で、クラシック音楽を身近なものにしてくれた。二郎は、シュエラザードを聴いて、自分がシンドバッドになったような気分になり、アルプス交響曲を聴いて、自分がヨーロッパのアルプスを登攀しているような気分になった。

ただ3年生になると二郎も身体が大きくなって押し入れが窮屈になって来ていたし、学校での話題についていくためには家族と一緒にテレビを見ない訳にはいかなくなった。それでもその頃は、子供向けに編集されたホームズ全集が二郎の小学校で流行しており、二郎もラジオの代わりにそれを押し入れに持ち込んで夢中になって読んでいた。それをわざわざ押し入れで読んだのは、友人が静かな狭いところで恐い本を読むと臨場感が出てより恐ろしく感じると聞いたからだった。ある日、二郎が押し入れで『まだらの紐』を読んでいると仕切りをはさんだ向こう側から蛇の呼び笛にも似たような音がしばらく聞こえた。「何かしら」と二郎は思ったが、あまり気にもせず続けて本を読んでいる間に忘れてしまった。

その後しばらく夏休みで二郎は父親の故郷の岡山に行っていたが、新学期が始まって最初の日に、二郎は夕御飯を済ませると押し入れに入った。『まだらの紐』の続きを読み始めたが、挿し絵の効果もあって二郎は恐怖感が段々募って行った。すると突然笛の音が鳴り始めた。よく聴くとそれはクラリネットの音で、「ブラームスの子守唄」や「ロンドンデリーの歌」や「グリーンスリーブス」などを演奏していた。
クラリネットの音は大きくて、二郎の恐怖感に満ちた心を直撃した。二郎は翌朝まで眠ることができず、体調を崩してしまった。母親は一日だけ学校を休んでよいと言ったので、畳に布団を敷いてもらって休むことにした。母親が仕事に出掛け、しばらくすると、かすかにクラリネットの音が聞こえて来た。
〈おかしい。何か変だぞ。おばちゃんは、楽器を自分の子供にさせたいと言っていた。まあちゃんは学校のはずだから、だれが楽器をひいているんだろう。もしかしたら楽器のうまい泥棒が侵入しているのかもしれない〉
二郎がそっと押し入れの引き戸を開けると前と同じようにベニヤ板一枚の向こう側でクラリネットが鳴っているのが聞こえた。二郎はホームズの小説に感化されていることもあり、だれしもが持っている真理を探究する心と好奇心に突き動かされて、自分の家を出て路地に出た。路地に面して森下家の勝手口と玄関があったが、二郎はより近い勝手口の引き戸を開け、台所を通り抜けて六畳間の押し入れの前に立った。押し入れの中では今でもクラリネットが鳴っていた。中では、だれかが無心でクラリネットを演奏しているようだった。二郎は『ロンドンデリーの歌』が終わるのを待って、意を決し押し入れの引き戸を開けた。
中には森下さんのおばちゃんがいた。
「この子は何をするの。だれにも断らないで人の家に入るのは泥棒のすることよ」
おばちゃんはいつもと違って本当に怒っているようだった。二郎は勝手口で自分の靴を履かずに家に帰って来た。しばらくの間、おばさんが二郎の家の外で、大きな声で二郎を呼ぶのが聞こえたが、やがてあきらめて帰って行った。

小学校4年生になったばかりのある日、二郎はおばちゃんに声を掛けられた。
「もうすぐ自分の家を買ったので出て行くけど、ここでの生活は楽しかったわ。わたしのところには男の子がいないから、あなたのことはいつも気になっていたの。わたしに言い過ぎたところがあったら、ごめんなさいね。でも、あなたがわたしの家に突然にやってきたのには驚いたわ。男の子は少しごんたなところがあった方がいいのかもしれない。あなたのことで気になることがあると、いちいち声を掛けて反省を促したけれど、それが大きくなった時にどうなるか少し心配なんだけど。おばちゃんみたいな手強い女の人が現れても、言うべきことはきちんと主張するのよ」
おばちゃんがいつもと違ってやさしく微笑んでいたので、二郎は心が開放的になって思い切っておばちゃんに訊いてみた。
「ぼくはクラシック音楽が好きだけど、おばちゃんは好きですか」
「ええ、もちろん。クラリネットもあの音色に憧れて買ったのよ。わたしには才能はないみたいだけれど、もう少し頑張ってみるわ。あなたが今から興味を持って練習に励めば、有望かもしれないわよ。ところで、あなたも聞いている音楽の泉をわたしも楽しみにしているのよ。だって耳を澄ませば、押し入れの仕切りの向こうからよく聞こえるんですもの。そんな風通しのよい生活ともうすぐお別れだと思うと、少し寂しい気がするんだけれど」
そう言って、森下さんのおばちゃんは、愛しそうに両手で二郎の手を握った。

それからしばらくして、森下さんは引っ越して行った。

 

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