大志をいだく時  


田中は、家族のことで急用が出来た。上司に相談すると早退してよいとのことだったので、同僚に必要なことを伝えて会社を出た。

会社を出てJR線沿いの道を歩いているとそれまで少しずつ暗くなっていた空が突然真っ暗になり、滝のように雨が降出した。田中は、高層マンションと沖縄物産店の間にある公園の八角形の黒い屋根の下に逃げ込んだ。八角形の屋根は直径30センチ位の支柱一本で支えられ、屋根の下には2つのベンチがあった。田中の先客がいたが、それは12才位の男の子だった。

先客は田中に背中を見せて地面を見ているようだったが、時々背中を震わせ泣いているようにも見えた。同じ年頃の男の子を持つ田中は気軽に声をかけた。
「今日から夏休みに入ると言うのに、どうして泣いているんだい。遊び相手がいないのかな。友達とけんかしたのかな」
子供は最初突然声を掛けられたことに驚いたが、田中が笑顔で声を掛けているのに安心して答えた。
「終業式が終わった後、友達と帰っていたら、夏休みどこに行くのときかれたけど、今年はどこも行けないんだ。ぼくはピアノを習っていて、秋に発表会があるから、これから毎日先生のところに行かないといけないんだ」
「でもきみは、ピアノが好きなんだろ」
子供は今までの表情が一転して、にっこり笑って答えた。
「うん、とっても。時間があれば一日中弾いている。先生も上手だと誉めてくれるよ」
田中は子供の肩に手をやると、
「それならピアノをやればいい。おじさんもきみと同じくらいのとしの子供がいるけど、家族旅行に連れて行けるのは2年に一度くらいだ。きっときみのご両親も来年は連れて行ってくれるよ」
子供は納得したようだったが、雨はまだ強く降っていた。

田中が子供と会話している間に、雨宿りをするために別に7人の老若男女が、八角形の屋根の下に集まった。その中の40代位の女性が田中と子供の話しを聞いていて、会話に加わった。
「ピアノの英才教育を受けているのかしら。わたしもショパンが好きでいつも聴いているわ。家の子には才能はないみたいだけど。あなたはショパンを弾けるの」
子供は答えた。
「まだ他の作曲家の練習曲を弾いているだけだけど、ショパンのマズルカは好きです」
雨はまだ止みそうもなかった。

「マズルカが好きだなんて、きみは将来性がある」
70代位の顔の下半分を髭で被った紳士が反応した。
「映画音楽になった夜想曲や「別れの曲」が好きだって答えるかと思ったら、この子はマズルカが好きだと答えた。マズルカはショパンの祖国ポーランドの民族舞曲でショパンが生涯に渡って作曲し続けた、味わい深い曲だ。わたしはバラードを華麗に弾くピアニストより心を込めてマズルカを弾くピアニストの方が好きだな。カペルってピアニスト知っているかい」
子供は答えた。
「カペルのレコードがうちにあって、父が聞かせてくれたんです。ぼくはその演奏を聴いてマズルカが好きになったんです」
雨はまた強く降出した。

「ショパン弾きなら、フランソワはどうです。彼のノクターンやバラードや2つのピアノ協奏曲の演奏は他の追随を許さないすばらしいものだと思います。彼は酒食に刺激を求めて若くして亡くなりましたが、彼独自の味わい深い音楽は酩酊と密接に関係があるような気がします」
40代後半の若作りの男性が話し出すと、それを遮って60代の頬の痩けた男性が話し出した。
「あなたは子供に酒を飲んだら不思議な効果が出るから、そうしなさいと言っているようだ。クラシック音楽は気持ちを高ぶらせるものを使わないで演奏してほしい」
子供は言った。
「フランソワもすばらしい演奏をします。父はフランソワも好きなんです」
頬の痩けた男性は、愛おしそうに子供の頭を撫でると言った。
「実はおじさんもフランソワが大好きさ。でも健康に気を付けて長生きしていたら、クラシックファンをもっと楽しませてくれただろうと思うのさ」
雨は止んでいたが、誰も八角形の屋根の下を離れようとしなかった。

「ぼくはいつも別の音楽を聴いていますが、ショパンは聴きます。ショパンは孤独、悲しみ、憧れなどの感情を音楽にしていると思います。都会の喧噪の中で一人になりたくなったときや深い悲しみに陥ったときにショパンの音楽を聴くと心の奥にじんと染み込んで深い感動を呼び起こします。実はこの娘の勧めで名曲喫茶に行ったときもショパンの曲がかかっていたんです」
若いカップルの男性が話し出すと、子供はきいた。
「名曲喫茶って」
若いカップルの女性は言った。
「あなたももう少ししたら行くといいわ。いろんな演奏が聴けるから、きっと勉強になるわ。コーヒーを飲んでもいいし、読書をしてもいいし。でも、おしゃべりはしてはだめよ。わたしはリパッティのワルツが好きでよくリクエストしたりするのよ」
「リパッティのワルツは、心に訴える何かがありますね。死の直前の痛々しい感じのする演奏ですが、なぜか音色が、信じられないほど美しい。それに何より、この演奏にはやさしい歌がある」

30代の真っ黒に日焼けした男性が話した。


大人達はベンチに腰掛けている子供を囲んで話しをしていたため、もう一つのベンチの方を見ることがなかったが、いつの間にかやって来てベンチに寝転がっていた男が意味不明の大きな声を出したので、屋根の下の人々は一斉にそちらを向いた。男は背中を見せて横向きに寝ていたので、年齢等はわからなかった。男はベンチのそばに靴を揃えて置いていた。その男は5年以上愛用したと思われるグレーのスーツを着て、水色の靴下を履いていた。靴下は踵から3センチくらいのところに直径2センチくらいの穴が両方とも明いていた。男は突然話し始めた。
「こんなところにたくさんの人が集まって、それがみんなクラシックファンだなんてありえないよ。クラシックは訳すと古典なんだ。大昔の音楽なんだよ。それを現代人が有り難がって聴くのはどう考えたっておかしいよ。味覚や嗅覚で楽しむものは鮮度が一番であるように、聴覚で味わうものも新しいものがいいんだよ」
「おじさん、それはまちがいだよ」
子供の大きな声は、男の得意げな話しを中断させた。
「クラシック音楽は演奏家の解釈で、自由にかたちを新しく変えるんだ。メロディが美しく構成がしっかりしているからいろんな解釈が可能なんだ。それからおじさんは鮮度と言ったけど一旦発せられた音が地上に留まり劣化したり腐敗することはない。レコードで残された音楽は、その人が初めて聴いたその瞬間にその人にとっての優劣が決まり、優れた音楽はそのときから永遠にその人を魅了し続けるんだ。そう先生が言ってたよ」

男は靴を突っ掛けて、また急に強く雨が降出した中に消えて行った。しばらくして、一番年長の髭の男性が話し出した。
「今の時代は人の嗜好が多様化して、何を求めたらよいかわからなくなっている人が多い。メディアの紹介するものも必ずしも大きな感動を与えるものでもないように思う。わたしも長年クラシックファンで多くの演奏を聴いて来たが、大家の演奏がいつも感動を与えてくれたとは言い難い。むしろ失望する方が多かったかもしれない。それでもすぐれた演奏は何度もわたしを励まし力づけてくれた。わたしが十代に聴いて感動したレコードを今でもたまに取り出して聴いたりする。クラシック音楽にはそうした魅力があるんだよ」
髭の男性は子供の方を見てにっこり笑い、そして言った。
「そんなすばらしいクラシック音楽を演奏してくれる演奏家を、みんな心待ちにしているんだよ」
40代位の女性が言った。
「あなたはカペルのようにハンサムで、リパッティのような美しい音を奏でる、フランソワのように独特の感性を備えた、立派なピアニストになるのよ」

子供はそれに笑顔で答えた。
「みんな励ましてくれてありがとう。ぼくはこれからクラシック音楽をまじめに習おうと思います」
先程から話しを聴いていた田中が話し出した。
「ぼくも以前からショパンに興味がありました。短い曲なのに心に残る、演奏者によって表情が変わる、そんなショパンのすばらしい演奏を聴きたいな。きみ名前はなんて言うの」
「高志」
「じゃあ、高志君楽しみにしているから」
雲の切れ目から日が差して来た。田中が駅に向かって歩き出すと、髭の紳士と高志以外はそれに続いた。
「ショパンは若くして愛する祖国を離れざるを得なくなり、いくつもの悲しい別れを経験した。ショパンの音楽の多くは悲しみの音楽とも言える。そんなショパンの気持ちを理解した時に、きっときみのショパンの演奏は人々の心に強く訴えることだろう。人生、別れはつきものだ。きみもいくつものつらいことが、続くかもしれない。それでも必ずその後にすばらしい出会いがあるから、それを信じてどんな時もがんばりなさい」
髭の紳士が高志に言うと、高志は少年らしく頬を赤くして恥ずかしそうに頷いた。

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