登山者2    

山川はやっとのことで急斜面に生えているじぶんの腕より少し太い樹木の根元に両足を乗せたが、右手でその樹木を掴み登って来た急斜面を見ると、簡単には下りられないなと思った。
「ロープを伝って登っている時に蝮が出て来なければ...」
そう言って今度は上を見ると、枯葉に被われた砂地だけの急斜面が続き、ずっと上の方には木漏れ日が見えた。山川は補助ロープがなくなってからも、100メートル程、砂地に散在する石や折れた木の根っこを手懸り足掛かりにして急斜面をよじ登ったが、そろそろ見極めが必要になっていた。遠くで雷鳴が聞こえた。
「このまま登り続けて雨になったら、今まで以上に滑りやすくなって危険になる。地盤も弛んで来るだろうし...」

山川が今までと違ったルートで比良登山を楽しもうと思ったのは、5月初めに連休が取れたからだった。イン谷口から青ガレ、金糞峠、八雲ヶ原を経由して武奈ガ岳山頂に至り、ワサビ峠、中峠、金糞峠、青ガレを通ってイン谷口に戻るルートは、穂高登山のトレーニングのために20数回登ったことがあったが、今回は時間を掛けて別のルートを登ってみようと思ったのだった。JR志賀駅を下車して、大谷川登山口を経由して荒川峠に着くまでは2時間30分程で行くことができた。天候も素晴しく、シジュウカラ、ホオジロ、オオルリの鳴き声もいつになく印象に残った。その中に烏の鳴き声も混じっていたが、山川は、烏谷山(からとやま)だからかなと思った。烏谷山の山頂に登り、その後比良岳の山頂で昼食を取ったのが、午前11時30分だった。来た道を戻るのも時間的には可能であったが、ガイドブックにあった葛川越(かつらがわごえ)から大岩谷口(大谷川登山口から荒川峠に行く道の途中にある)に出る近道を通って下山することにした。

葛川越から大岩谷口に向かうルートを少し行くと、テープや赤いペイントのマーカーがしばらく途切れた。また人が通った道らしきものがまったくなくなったので、山川は引き返そうと思ったが、少し先に沢があるのが見えたので沢を下って行けば、いずれは大岩谷口に出るだろうと考えた。
「まだ昼過ぎだし、3時間もあれば大岩谷口に着くだろう」
山川は道がほとんどない岩と渓流が延々と続くところを下りた。沢下りを始めて1時間程して5メートル程の落差のある岩場に行き当たったが、左手を見ると砂地の崖があったので、そこを下りた。茨のある植物を手で掴んだり、脇に抱え込んだりしたので、半袖シャツで手袋をしていなかった山川は擦り傷だらけになった。山川は舌打ちをしたが、足が地に着くと再び歩き始めた。

しばらく行くと右手に赤いペイントで丸印(マーカー)が見えたので、山川はそちらに向かって行った。山川は、依然、人と出会わないのを訝りながらも、それから半時間程さらに歩いた。右手を見ると、黄色と黒のナイロンロープが2本垂れているのが見えた。
「これを登るのかな」
傾斜は70度位あり、とても正規ルートに出られそうもなかったが、
「とにかくロープが途切れるところまで上がって、そこで正規ルートに出なかったら、引き返せばいい」
そう言って、山川はロープを掴んで急斜面を登り始めた。
ロープに掴まりながら、80メートル程登ったが、ロープが途切れるところが2メートル50センチ程の岩場になっていた。岩場の上にある樹木にロープは括りつけられていた。山川がロープをしっかり掴もうと視線を下方に転じると土色の紐状のものが蛇行するのが見えた。驚いた山川は一気に岩場をよじ登り、一息吐いた。山川は蝮のいるところに引き返したくなかったので、上に正規ルートがあることを願い、引き続き登った。そこからも急な斜面が続いたが、砂地の斜面に突き出た石と木の根っこを掴みながらしばらく登った。ところが、掴むもののない、今まで以上に急な斜面となって、ついに進退が極まってしまったのだった。

山川は数分間今後どのように対処するのか上下前後左右を見て、逡巡していたが、
「上方に行っても突破口が見出せそうにないのなら、まずは何とかして沢に戻って沢下りを続けなければ...。それにしてもこんなに急な傾斜を登って来たのかな。それでも三点支持を守って下りて行けば、何とか沢まで行き着くだろう」
そう言って、山川は意を決して下りて行ったが、岩場のところで立ち止まった。
「この下に蝮がいるかもしれないがそれは考えないことにしよう。それより足を掛けるところがないのが問題だ。飛び下りられない高さではないが、斜面が急だから、勢い余って滑落する危険がある。2点は右足と右手で確保できるが...。3点目をどうするか」
遠くで聞こえていた雷鳴が近づきつつあった。
「雨が降出すとすべりやすくなって、とても下りられないだろう。このロープを左腕に巻き付けて3点目としよう。肘に力が掛かると危ないから、少し余裕を持たせよう」
そう言って、山川はロープを引っ張ったが,30メートル程先の木に括りつけてあり、ほとんど余裕はなかった。間髪を入れずに、近くで雷鳴が鳴ったので思い切って岩場を下りた。岩場で足を滑らせることなく下りることができたので、下りてすぐに蝮がいたあたりを急いで歩いた。無事に難所を通り過ぎることができたが、左の上腕部に蚯蚓脹れがくっきりと浮き出ていた。その後は補助ロープを頼りに根気よく下り続け、ようやく沢に戻った。

山川は沢に出てから、沢を下り続けたが、10分程歩くと再度進路を阻まれ、絶望感に打ちのめされかけた。滝のようになったところに出たのだが、今度は10メートル程の高さがあり、岩場が切り立っていた。そのため横から回っても下りられなくなっていた。
「来た道を帰るしかないな」
そう言って、山川は引き返した。10分もしないうちに、雷鳴が轟き大粒の雨が降り始めた。大木の根っこが露出してひさしのようになっているところを見つけて、そこに避難したが横殴りに吹き付ける雨は容赦なく山川に降りかかった。山川はすぐに雨具の上着を身に付けたが、雨具のズボンとツエルト(非常用簡易テント)を持って来なかったことを悔やんだ。時計を見ると、午後3時を過ぎていた。
「今日はついてないな。でもさっきより少しはましな状況になっている。冷静さを失って、大事なことを見過ごさないようにしよう」
空を見上げると、少し明るくなっていた。
「雷鳴も小さくなったし雨も小降りになった。葛川越まで戻るには2時間以上かかるだろうし、日が暮れるまでにびわ湖バレイにたどり着ければいいが...」
山川は再び歩き始めた。

雨が止んだので、山川は雨具を片付けた。しばらくすると5月の心地よい風が、山川の肌を撫でて行った。
「5月のそよ風か。そう言えば、メンデルスゾーンがそんな題の曲を書いていたなあ」
非常食のチョコレートを食べながら左手を見ると、先程見た赤いペイントの丸印があった。そして右手を見ると、木の幹に赤いテープが巻き付けてあるのが見えた。山川はしばらくぽかんと口を開けてそれを見ていたが、
「マーカーだ。これで帰れる」
と言うと、両手の拳を突き上げた。

山川が大岩谷口を経由して湖西道路のガードをくぐりしばらく歩くと、農作業をしている60代位の男性に会った。挨拶をするとその男性が応えたので、山川は尋ねた。
「今日初めてこちらのルートから登山をしました。登りは順調でお昼前に比良岳まで行きました。帰りは近道をと、葛川越から大岩谷口に出る道を通ったのですが、なかなか分岐点がわからず困りました」
その男性は最初にこにこして山川の話を聞いていたが、葛川越から大岩谷口に向かったことを聞くと急に表情に変わった。
「その道は今、廃道となっています。今から10年程前に土石流が起こり、沢に出るまでの道を埋めてしまったためなんですが、道に迷うことが多く、歩きにくいから、地元の人も最近はほとんど行かなくなった。登山口などに掲示している、登山ルートにも乗っていないはずです」
山川が、とにかく今日は疲れましたと言うと、その男性は、にっこり笑って話した。
「春先に比良八荒という強風が吹いたりして、この辺りは天候が変わりやすい。今日も大粒の雹が降っていた。でも、比良の山歩きは楽しいから。また...」
「ええ、もちろん。これは強がりを言っているのかもしれませんが、今回の登山で不案内な場所を訪れることのスリルとそれから解放されることの喜びを知りました。明日は、クロトノハゲから蓬莱山へ、また明後日は大津ワンゲル道を経由して釈迦岳の方へ行ってみようと思っています」
山川はうれしそうにそう言うと、JR志賀駅へと向かった。

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