『こんにちは、ディケンズ先生』 第5巻 チャプター1

小川は、出張で京都に来ていた。新幹線を降りると、JR京都駅を出て50系統のバスに乗った。
<このバスは、大学生の頃、よく利用したなぁ。自宅の最寄りの駅で阪急電車に乗り、大宮駅で降りて四条堀川でこのバスに乗ったんだった。大学に行く前に通っていた予備校も二条城の北側にあり、この頃から京都はぼくにとって大切な場所になった。大阪で生まれ育ったけれど、高校生の頃から京都の民放のラジオ番組をよく聞いていて、京都をもっと知りたいという気持ちがあった。5年間自宅から京都に通って、京都の奥深さを認識したんだ。平安京の昔から日本の都だった土地は今でも文化の中心地であり続けているし...。でも大学を卒業してからは20年余り東京暮らしが続いて、5年ほど前には単身赴任で大阪で4年間暮らしたけれど、その時は京都を訪れることはほとんどなかった。遅くまで仕事をしていたし、休日は実家で過ごしたりクラリネットの練習をしていた>
二条城が見えてくると、小川は城の入り口の前に目をやった。
<今から30年以上前、ぼくはここを歩いて予備校に通っていた。その頃は先のことは手探りで何もわからなかったけれど、楽しかった。それは、行き帰りの電車の中で読む文庫本のお陰だったんだ。最初はページ数が少ないというそれだけの理由で、モリエールの喜劇の台本を読んだものだった。17世紀の頃に書かれたものなのに今読んでも楽しく、いっぺんに西洋文学の虜になってしまった。戯曲がいいのかなと思ったぼくは、シェイクスピアも読んでみたけれど、こちらは庶民の笑いというものではなくて、歴史ものや悲劇だけでなく、喜劇も格調が高くて敷居が高いなと感じたものだった。ある日、モームの『世界の十大小説』という本を見つけて、この本の中で紹介しているいくつかの小説を読もうと思ったのだった。当時ぼくはモームをよく読んでいてイギリスという国を身近に感じていたので、その中の『トム・ジョーンズ』『高慢と偏見』『嵐が丘』を読んでみた。18世紀から19世紀の頃の物語だったが、楽しんで読めたので、4巻本のディケンズの小説『デイヴィッド・コパフィールド』も挑戦してみようと思ったのだった。当時、『デイヴィッド・コパフィールド』は中野好夫訳しか出ていなかった。中野訳モームの『人間の絆』『月と6ペンス』『剃刀の刃』を読んでいて、中野氏は読みやすい翻訳をされるので何とか読めるんじゃないかと思ったんだった。それで『デイヴィッド・コパフィールド』を読み始めたんだが、今まで読んだどの本より楽しく読ませてもらった。とにかく登場人物が興味深く、本から飛び出してきてぼくの傍で話しているような気がしたんだ。ミコーバー、ヒープ、ペゴティ、バーキス、叔母のベッチー、ミスター・ディックのような登場人物までがリアリティのある人物で、小説の中で活躍した。それまでにない楽しい小説を読んで、もっとディケンズのことを知るために、できるだけ彼の作品を読んでみたいと思った。それからディケンズの翻訳ものばかりを読んでいたが、当時読むことができる文庫本を読み終えたのは、大学に入る1週間前だった。あっ、このバス停だな。打ち合わせが済んだら、深美と大学で待ち合わせている。深美は、原書でディケンズを読むと言っていたが、どれだけ読んだのかな。最近、ディケンズ先生は夢に現れないけれど、今夜あたり現れてくれないかしら>
小川は、少し急いでいたため、横断歩道を渡らず車道を横切った。車の陰から飛び出したため、運悪く猛スピードで走ってきたバイクと接触した。バイクとは軽い接触で済んだが、小川は衝突した勢いで電柱にぶつかり気を失ってしまった。

小川は霧の中をしばらく歩いたが、誰も現れないので、おーいと叫んでみた。しばらくして、ディケンズ先生の、おーい、無事かという声が聞こえた。それと同時に飛行機が離陸する轟音が聞こえた。
「ディケンズ先生、ぼ、ぼくは三途の川をジェット機で渡らないといけないのですか」
「まさか、それは心配しないでいいさ。でも軽はずみな言動は厳に慎むべきだよ。バイクでなく、ダンプカーだったら、どうなったか」
「そうですね、反省しています。それにしても、幸か不幸かぼくが交通事故に遭ったために、ディケンズ先生とお別れして1年もしないうちに再会できたんですね」
「そうだな、わたしはもう少し経ってからと思っていたから、確かに君にとってラッキーだったと言えるだろう」
「先生とお会いできて、嬉しいです」
「ところで、小川君は最近、体調はどうかな」
「最近、遅くまで残って仕事をするのが辛くなっています。休日は遅くまで寝ているし。体重も増えてきたし」
「そんな時、普通の人なら、ジョギングをしたりジムに通ったりして減量に努めるもんなんだが、小川君はいろんなことに忙しくって、それどころではない。このままだと、体重は増える一方、今のところ何とか健康状態を保っている小川君の身体も悲鳴を上げて...」
「そ、そんな、酷い状況なんですか」
「まあ、君には医師の知り合いもいることだし、相談してみてはどうかな。小川君の身体が健全でないと、わたしの話をどれほど理解してくれているのかと思ってしまう。仕事だけでなく、小説を書くことや音楽活動で頑張ってもらわないといけないからね。こうして再会したのだから、しばらくは君の夢に現れるからね。楽しみにしていてくれ」
ディケンズ先生が霧の中に隠れてしまうと、小川の意識が戻った。小川は額に手をやったが出血はないようだったので、ぱんぱんとズボンの埃を払うとカバンを探した。近くの人が、大丈夫どすかとカバンを渡したので、おおきにと言ってそれを受け取った。