『こんにちは、ディケンズ先生』 第5巻 チャプター2

小川は事故に遭ったその場に長くいると、誰かが心配して救急車を呼ぶと思ったので、少し時間が早かったが、深美と待ち合わせをしている場所に行くことにした。待ち合わせ場所は、現在、深美が通学していて、小川が以前通っていた大学の図書館の前だった。待ち合わせの時間まで30分以上あったので、校内を歩いてみることにした。
<近く、図書館が新しくなると聞いたから、もう一度入っておきたかったんだ。OBで利用する人も多いし、ひとりで入ってもいいんだが、深美も利用していることだし、一緒にディケンズ先生の『ピクウィック・クラブ』のページをめくるのも悪くないかなと思ったんだ。まだ時間があるから、他の懐かしい場所にも行っておくかな。南側にある経済学部のこの建物は1981年に法学部の建物が出来る前はこの大学のシンボル的な建物だった。1回生の時の特殊講義がここであって、週に1回ここの大教室で授業を受けたものだった。ここから西の方へ行くと産業社会学部と文学部がある。文学部の校舎からそれほど遠くないところにほぼ毎日昼食を取った学生食堂があった。栄養バランス、満腹感、味付け、価格を自分なりに考えて、ほぼ毎日野菜と豚肉のみそ炒めとライスを食べていた。でも週に1回は法学部の建物の中にある食堂で定食を食べてたかな。本屋は法学部の建物の地下にあって、一度だけ、井上ひさしの『吉里吉里人』の初版を購入したくて開店前から並んだことがあった。井上ひさしさん、井上靖さん、星新一さんは当時よく読んだ作家だった。でも西洋文学の翻訳ものばかり読んでいたから、あまり偉そうによく読んだとは言えないかな。そうそうディケンズ先生の『リトル・ドリット』もここで購入したんだった。帯に「長い監獄生活」「監獄で暮らす不遇」と書かれてあって、そんな暗い小説は読みたくないと大学生の時には読まなかったが、卒業して秋子さんとの交際を再開した頃から、この本を読み始めたのだった。確かにドリット一家が長い間暮らしたマーシャルシー債務者監獄は暗いところだけれど、主人公のアーサー・クレナムをはじめその他の登場人物は監獄の外で活動する人物だし、決して暗い話ではない。むしろハッピーエンドで終わるので、明るい小説と言えるだろう。ちょっと違うかもしれないけど、苦悩を突き抜けて歓喜に至る、ベートーヴェンの音楽のような作品だと思うのだが...。おや、深美が向こうからやってくるぞ。一緒に友人もいる。ぼくのことに気付いたようだ>
「あら、お父さん。まだ約束の時間では...」
「ちょっと早く着いてしまったんだ。ごめん。ところでこの方たちはクラスメイトなの」
「ええ、服部さんと乾さん。どちらも同じクラスで、一緒にプロゼミや語学を習っているの」
「いつも深美がお世話になっています」
「こちらこそ。深美さんは海外生活が長かったので、興味のある話をいっぱい聞かせてもらってるんです」
「それでわたしたちもいつかはイギリスに行ってみたいなと思っているんです」
「そうですか。これからも深美のこと、よろしくお願いします」
「じゃあ、ちょっと早いけど、わたしはお父さんと図書館に行くから、また明日」

小川と深美は大学図書館の中に入り3階の英米文学の棚を探したが、『ピクウィック・クラブ』は見つからなかった。小川がカウンターに行き、係の人に尋ねると書庫の中にあると言われたので、書類に記入して出庫してもらった。深美は、その本を受け取るとテーブルの上に置いた。昔日の小川のように、深美は腰かけて本の上に頭を乗せていたが、入眠してディケンズ先生が現れるということはなかった。
「わたしは駄目みたい。もう少しディケンズ先生の小説を読まないと駄目なのかな」
「ははは、そうかもしれないね。でもお父さんの場合、最近はディケンズ先生だけで済まなくなったから」
「それって、どういうことなの」
「ディケンズ先生の小説の登場人物が、次々と現れるようになった」
「ねえねえ、それは誰なの」
「『ピクウィック・クラブ』のサミュエル・ピクウィック、『ドンビー父子』のフローレンス・ドンビー、『デイヴィッド・コパフィールド』のベッチー・トロットウッドとか。ピクウィック氏とはディケンズ先生と同様に親しくしているよ」
「へーえ、面白い。ピクウィック氏のことをもっと知りたいわ」
「よーし、わかった。でもここでは長話はできないから、外に出よう」
「いいわ」