『こんにちは、ディケンズ先生』 第5巻 チャプター3
小川と深美は図書館を出て、法学部の建物の地下にある学生食堂に入った。コーヒーの自販機から紙コップに入ったホットコーヒーを取り出すとその近くの席についた。
「ねえねえ、お父さん、早くピクウィック氏のことを話して」
「いいよ。ところで深美は、『ピクウィック・クラブ』は読んだのかな」
「まだよ。『大いなる遺産』『二都物語』『オリヴァー・ツイスト』それと中編小説の『クリスマス・キャロル』くらいかな」
「『ピクウィック・クラブ』はディケンズの最初の長編小説で、この小説で際立つのが...」
「主人公のピクウィック氏なのね」
「そう、この小説は、召使で一緒に旅をすることになるサム・ウェラーが登場してから、売れ出したと言われているが、やはりピクウィック氏の言動がとても楽しく、興味深い。一番の見どころは、頑固な初老の紳士が一度言い出したことを貫き通すというところなんだ。詐欺師に騙されたり、裁判の費用を出さないと言って債務者監獄に入れられたり、大変な目に合うが、それでも初心を貫き通す。ピクウィック・クラブの他のメンバーである、ナサニエル・ウィンクル、オーガスタス・スノッドグラス、トレイシー・タップマンやサム・ウェラーもピクウィック氏の頑固さに戸惑いながらも、サポートしている。この小説の中心に来るのがピクウィック氏が下宿していた家の女主人が勘違いして訴訟を起こすバーデル対ピクウィック裁判だ。これは悪徳弁護士ドッドソンとフォッグによる企みなんだが、ピクウィック氏はそれに敢然と立ち向かっている」
「ふーん、面白そうね。ディケンズって法廷のシーンが出てきたり、弁護士さんが活躍したりするけど、ディケンズ自身は法律家だったの」
「15才の頃から法律事務所で事務員として勤め始めたが、裁判官や弁護士にはならずに法廷の速記記者になった。20才の頃から雑誌に投稿するようになり、これが出版社の目に留まり、やがて執筆活動が本業となってゆく。そうして24才の頃からこの小説を書き始める」
「さっき図書館で『ピクウィック・クラブ』を見たけど、ユーモラスな挿絵がいっぱいあったわ」
「ディケンズは挿絵は物語を理解するために役立つと考えていたようで、たくさんの挿絵が残っている。でも挿絵を見てすぐにどの小説なのかがわかるのは、『ピクウィック・クラブ』くらいだろう」
「わたし、大学に入学してしばらくは大学生活に慣れようと本をじっくりと読む時間がなかったけれど、『ピクウィック・クラブ』を読んでみようかな」
「そうするといいよ。今なら、文庫本でも読めるみたいだから」
「ええ、知っているわ。この前本屋さんで見かけたから」
小川が窓の外を見るとそこは通路になっていて、何人かの塊になって学生たちが楽しそうに会話を交わしながら歩いていた。
「ところで音楽の方もしっかりやっているのかな」
「それって練習しているってこと」
「まあ、それもあるけど。活動しているかってこと」
「まあできるだけのことをしているけど、ロンドンと比べるとかなり違うわ」
「そりゃー、深美の場合、大学生として法律の勉強をすることが第一なんだから、ロンドンにいるときのようにピアノばかり弾いているというわけにはいかないだろう」
「ふふふ、お父さん、勘違いしないで。わたし、ロンドンでピアノを弾いて毎日を過ごしていたわけではないのよ。土曜日と日曜日はロンドンでの生活を楽しんでいたわ。相川さんのお宅に行ったり、友人とコンサートに行ったりして。今は週末はバイト、月に2回アユミ先生の先生のところにピアノを習いに行っているから、とてもお父さんが言う、活動をするところまではいかないわ」
「じゃあ、4年間はモラトリアムというより、ブランクの期間ということになるのかな」
「そうならないようにしないとね。でも環境が変わるということは、新しいことに接する機会ができるということになるから、ロンドンで生活していた頃には考えもしなかったようなことが目の前で起きることもあるんじゃないかしら。そしてそれをヒントや手掛かりにすれば、音楽活動において新しいことが始められるんじゃないかしら。そういうチャンスが何度かあると思ったから、わたしは大学生活を送ろうと思ったの。今2回生で、語学や一般教養の講義を受けるのに忙しいけど、3回生になればもう少し音楽をする時間が増えると思うの。そして4回生には本格的に...」
「そうか大学生活をどのように過ごすかちゃんと決めているんだね。でもあんまり無理して、身体を壊してはいけない」
「ええ、気を付けるわ。そうそう相川さんが近く私を訪ねて来るって手紙に書いていたから、私の活動の場を探してくれるかもしれないわ」
「そうか、相川さんがまた深美のために骨を折ってくれるわけだ」
「そう、だから、少しは無理してもいいでしょ」
「・・・・・・」