若き日にできるのは
4回生になると、地道に単位を取得した学生は大学に行かなくなる。就職活動のため、アルバイトのため、海外旅行のためと理由は様々だが、残り少ない学生生活の貴重な時間を有意義に過ごそうとしていることに変わりはない。井上も久しぶりに大学に来た。季節は暑い時期を過ぎ、しばしば心地よい風が吹く頃となっていた。井上は卒業論文の調べものがあるため図書館に来たのだが、図書館に入ろうとすると近くでじぶんの名前を呼ぶのがきこえた。井上が振り向くとそこには、1、2回生の時に同じクラスだった小川がいた。
R大学の図書館は、K学舎のほぼ中央にある。そのため待ち合わせの場に使われることが多く、図書館の前は多くの学生が鈴生りになった果実のようにひしめきあって植木を取り囲むコンクリートの段に座っていた。小川は立ち上がると井上に話しかけた。
「ここでは話ができないから、談話室に行かないか」
井上は頷いて、小川の後に続いた。
談話室はZ館の1階にあり、学部の学生が自由に使用できた。四畳半くらいの空間の中に折り畳み式の縦長テーブルが3つ引っ付けられて並べられ、その周りに折り畳み椅子が数脚置かれていた。4つある談話室の1つがあいていたので、ふたりは中に入った。井上が外の空気を入れるために窓を開けようとすると、小川が叫んだ。
「開けないで」
井上は少しむっとしたが、すぐに、
「じゃあ話しを聞こう。なんか重要な話しみたいだね」
と言いながら、小川に近くの椅子に座るよう身ぶりで勧めた。
「きみは公務員試験に合格したそうだね。しかも政令指定都市だと難しかったんだろ。同じクラスだった他のみんなもほとんど就職先が決まったと聞いている。卒業したらみんなと会うこともできなくなってしまう...」
井上は、笑いながら言った。
「きみが聞いてほしいのはそのことかい。きみも就職先が決まっていると聞いている。働きながら小説を書き続け、30代で大きな賞をものにすると吉田に言ったんだろ。ぼくはきみが卒業までに何かとてつもない大作を書き上げると期待していたんだけれど」
井上は続けた。
「ぼくたちが入学してオリエンテーションがあった時、きみとぼくが隣り合わせの席になり、きみに話しかけた時のことを今でも思い出す。きみがぼくと同じ誕生日の4月2日であることを発見しそのことを言うと、その日で20才になるから祝杯を河原町で上げようと約束したんだったね。お酒を飲んで少し気持ちが高ぶったからか、きみは、大学にいる間にできるだけ多くの文学作品を読み、そのことで人ができないくらいの仮想体験を積む。それから必修科目の英語、ドイツ語以外にスペイン語も習って言葉を多角的に研究し、自分の書く小説に生かしたい。そして卒業までに大作を書くと言っていたね。そうだ、ぼくはきみの小説を読んだことがまだない。もし書いているのなら、見せてほしいなあ」
小川は鞄の中を見ながら、とまどっている様子だった。井上がそれを見せてと言うと小川はそれを井上に渡した。原稿用紙10枚程度の短編小説のようだった。井上が小川に読ましてもらうよと言って読み始めた。
「3回生の頃にきみが話していた、とんでもない悪党が出て来るピカレスク小説ではないようだね。落ち着いた感じの情景描写が丁寧に出来ている佳作だと思うね。最初の小説にしては良く出来ていると思う」
小川は原稿を元に戻しながら話した。
「きみの言う通りさ。3回生の頃はドストエフスキーの小説の感化を受けて、悪いやつがひどい目に遭う小説を書こうと思ったんだ。ロゴージンやニコライやピョートルやラスコーリニコフのような悪いやつが悲惨な最期に至るまでを描けば読者の溜飲が下がるだろうと。でもぼくにはそれができなかった。悪いやつを創作しようとしても、所詮、善良な市民のぼくたちには不可能なんだ。リアリティーを出そうとすればするほど、その人物に同化する必要が出て来る。深夜までそんな小説を書き続けた明くる朝、顔を洗って鏡で自分の顔をみたら、今まで見たことがないような自分の顔があった。それを見て隠し事のできない自分を未熟だと思ったが、同時に犯罪行為の企画書のようなものを書いていて平然としていられる度量を、自分は持ち合せているのだろうかとも思った。悪いやつを描けば描く程、自分の性格が悪くなって行く気がして、そうした人物を書くことをやめたんだ」
小川は、厚い2冊の本を井上に渡した。
「最近このオーストリアの作家、シュティフターの『晩夏』という小説を読んだ。この小説には悪い人は一人も出て来ない。自然描写や骨董趣味的なことが長々と語られ、最期の2章を残すだけとなる。そこから物語は急展開するが、結局若いカップルの幸せな結婚で終わる。この小説は、最近知り合った女の子から勧められて読んだんだ」
小川は、突然話しをやめて4階の大講義室に行かないかと言った。ふたりは、その部屋を出た。大講義室は講義が終了し誰もいなかった。入口の向いの窓を見ると西日が差し込んでいた。
「ぼくは小説を書くことで仮想体験を人より多くした。それを小説で公にしなかったから、今こうしてきみと話しができる。もし3回生の時に考えていた悪党の悪事が公の目に触れる形で残ったら、心を穏やかにすることはなくなっただろう。その創作した人物に縛られ、もし誰かがその悪事を真似でもしたら、自責の念に駆られていただろう。自分の創作した人物を全くの他人として突き放して描き、しかもその人物にリアリティーを持たせることができるようになるまでは、相当多くの人生経験が必要だと思う。また自分が娯楽作品を書いているのだと自分に言い聞かせることが必要となる」
小川はそう言うとひとつ伸びをした。小川がなかなか話さないので、井上は友人の顔を覗き込むと小川は少し照れくさそうに話し出した。
「ぼくは、実は、在学中多くの小説を書いた。でも今のような理由で公にはできなかった。小説をたくさん書くために多くの時間を費やしたが、まじめに授業にも出た。今から1年前のこの時間に、丁度この教室で講義を受けていた。授業の終わり頃になってふと窓の方を見ると、女の子の長い髪が西日で輝いていた。それを見て、なんて美しいのだと思ったのを覚えている。その一瞬の出来事が、学生生活を大きく変えた」
井上は黙って続きを聞いた。
「もちろん、その時その子に声を掛けることはできなかった。ただ遠くでその子が元気でいることを確認してほっとする毎日がずっと続いた。ところが一月前に河原町の書店でその子に会い、学生生活ももう少しですねと話し掛けると、数日後にはその子がぼくの下宿にやってくるようになった」
小川が歩きながら話そうと『晩夏』を鞄に戻した。Z館から出ると秋のまぶしい日差しがふたりに降り注いだ。
「『晩夏』の中には、リーザハという「晩夏」を楽しく過ごしている楽園の主人が登場する。リーザハが若い日に頑に自分の愛を貫いたなら様々な軋轢が生じたはずだったが、彼はそれをしなかった。物語では、その最愛の女性と再会しその娘と主人公との結婚をお膳立てし祝福することになる。この物語を読んでいろんな感想を持つだろうが、ぼくは一時の選択が人生を大きく変えることを言いたかったような気がする。もし最愛の人の求めに応じていればもっと幸せな人生が用意されていたかもしれないが、あまりにリスクが多過ぎた。そしてそれを受け入れなかったために、リーザハの人生は波風の立たない平和なものとなった。平和な波風の立たない人生は変化のないつまらないものにも見えるが、生活の基盤としてはそれが好ましいものとなるんじゃないだろうか。そんな生活の中にもその人にとっての貴重な瞬間はあるはずだ。そんな光彩を放つ瞬間や善良な人のまじめな生活を描きたくなったのさ。きっとこれは読者には受け入れられないだろうけれど」
小川は図書館の近くまで来ると立ち止まった。
「今日も、これからその子とふたりで河原町にでも行こうかと言っている。待ち合せの時間に遅れてしまうことになるけれど、きみに心境の変化というか、現状を話しておきたかったので声を掛けたのさ」
図書館の前にふたりがやってくると、赤いチェック柄のワンピースに焦茶色のカーディガンを羽織ったセミロングのヘアスタイルの中肉中背の女の子が満面の笑顔で小川を迎えた。小川はその子に、これから何処に行くとだけ話した。
井上は小川と別れた。世間をあっと言わせるような小説を書けとはもちろん言えなかったし、地道に小説を書くことを続けたらとも言わなかった。ただ彼女を幸せにしてやれよとだけ、別れ際に言った。