人生は美わし
ふたりが中央線沿線の名曲喫茶に入って珈琲を頼んだ時、午後10時近くになっていた。鈴木の希望で訪れたのだが、少し話もしたかったので入口近くの4人掛けの席に座って小声で話すことにした。鈴木はこの店の常連で、店主が注文を聞きに来た時に、何かリクエストはないかときかれたため、「それじゃあ、いつものやつを」とレスピーギの「リュートのための古代舞曲とアリア」をリクエストした。
珈琲が出されてしばらくすると、鈴木と一緒にこの店に入った山中が話を始めた。
「毎日、遅くまでおつき合いいただいて、申し訳ありません。でも、1週間後には鈴木さんは退社されますし、それまでには...」
鈴木は、
「気にすることないさ。きみは東京はじめてなんだろ。きみのためにできるだけのことをして、定年を迎えたいと思っているんだ」
そう言って、ミルクと砂糖を入れた珈琲を啜った。
山中は名曲喫茶に入るのは初めてだった。入るまでは、クラシックという特殊な音楽を聴くためにクラシック音楽に精通した人が、スピーカーに対峙して黙って音楽に耳を傾けるところだと思っていた。ところがたいていの人は、居眠りをするような寛いだ感じで目を閉じて音楽に耳を傾けていた。
「仕事はわたし以外にも教わる人がいるのだから、焦ることはないと思う。わたしから引き継ぐ仕事は他の同僚も知っていることだから」
鈴木は一息入れると、笑顔で話した。
「ここはわたしの憩いの場だ。仕事で疲れたり、物事がうまく行かなくなると、自然とここに足が向いてしまう。」
山中は、自分がリクエストした曲が始まり、イタリア−ナの部分に来ると、両肘をつき両手首を付けて馬蹄形をつくりその上に顔を乗せて遠くを見つめるような目つきになった。
「この曲、こことシチリアーナがいいんだな。この曲は、レスピーギが15〜16世紀のリュートのための音楽を管弦楽曲に編曲したものなんだ。レスピーギはむかしの音楽を近代になって甦らせたわけだ」
音楽が鈴木の緊張を和らげたのか、鈴木はいつになく饒舌に話し始めた。
「きみは輪廻という言葉を知っているかな。人間は生まれ変わり、繰り返しこの世に生を受けるという考えを。東洋の思想で、モームの『剃刀の刃』という小説に少しそのことが書かれている。主人公ラリーはインドで修行中のある日、蝋燭の焔の向こう側に映画館の外の行列のように一列に並んだ長い人影の列を見る。主人公はそれが「前世の僕」が順番に並んだ行列だったかも知れないと言っている。ぼくは哲学者でもなければ大学教授でもないので的の外れたことを言っているのかもしれないが、輪廻という考え方が広まったのは、今の生活を大切にしないと次のときには罰則が課せられますよ。今の生活を大切にすれば次も幸せですよと言いたかったからのような気がする。これはむかしの賢者が混乱していた世の中を少しでもまともなものにしようと考えて、民衆の心に植え付けたものなのだろう。人間が生まれ変わるとすれば、次に生まれた時に幸せな環境に生まれそのことが終生続くことを願うだろう。そのためには日頃から誠実に生きなくてはいけない。そう言うふうにみんなが考えれば、少しは世の中がよくなると思ったのだろう」
鈴木は熱くなり始めた自分を自制させるかのように言った。
「ほんとにこの曲は、すばらしいなぁ。しばらく一緒に聴こうか」
鈴木が目を閉じて腕を組んで何も言わないので、山中は店内を見回しながら次の言葉を待った。ふたりは入口を入ってすぐの4人掛けのテーブル席に座ったが、そのとなりにも4人掛けの席があった。そのとなりにはアップライトピアノが、ピアノの横には1人掛けの席があった。50センチ程床が低くなり木製の柵で囲まれている席をはさんだ向側には調理場があり、そこには調理器具の他、2台のレコードプレーヤーや真空管アンプも置かれてあった。調理場の前には通路をはさんでレコードの棚があり、幅3メートル3段の棚には隙間なくレコードが並べられていた。調理場の奥には、1人掛けの席と2人掛けの席があった。一番奥の席は正面中央にある手作りのスピーカーよりも奥にあった。スピーカーは店主が製作したもので、箱型のスピーカーを左右に2台並べたものでなく、2枚の板にスピーカーコーンを3つずつ配置し店の奥に据え付けたもので、店の漆喰の内壁がいわばスピーカーボックスとホールの内壁を兼ねたものになっていた。スピーカーの前には約1メートルの空間があり、そこはさらに80センチ程低くなっていた。最初来た時は誰もが覗き込むが、そこには漆喰の壁のように白く塗られた床があるだけだった。その手前には、手すりをはさんでクレゼンダ(大型蓄音器)が置かれてあった。50センチ低くなったところには、他に5つのテーブル席が通路をはさんで配置されていた。鈴木たちは入ってすぐ右に腰掛けたが、左側には古風なかたちの窓の横に2人掛けのテーブル席が配置されており、そこには若いカップルが腰掛け外を行き交う人を見ながら、楽しそうに話し込んでいた。入って正面には4人掛けのテーブル席があったが、そこには80才位の男性が腰掛け、スピーカーと対峙して曲に合わせて楽しそうに右手を振っていた。
「すまない、つい曲に聞き入ってしまった」
山中は笑顔で答えた。
「きみは、ここをどう思う」
「名曲喫茶は初めてですが、心が癒されるというか、落ち着くというか。照明が少し暗いのも、漆喰の壁に掛けられた絵画や陶器の天使の像やランプも心地よい雰囲気にするのに役立っていると思います。何よりクラシック音楽が、聞く状態によって大きな感動を与えるものになるというのがわかる気がします。鈴木さんのリクエストされた曲の静かなところは、しっとりとしていてじっと耳を傾けたくなりますね。また来ようかな」
やがてシチリアーナの部分に来ると鈴木は右肘をついて頬を手のひらに乗せて話し出した。
「わたしが入社した当時は、モームが売れっ子作家でね。書店の棚には、彼の本がずらりと並べられていた。『人間の絆』は今でも本屋の棚で見ることができるが、若い頃のわたしは何度もこの本のペルシャ絨毯の秘密がわかるところを読んだ。人間も他の生物と同様、単に物理的反応として、生じたものにすぎない。人は生まれ、苦しみ、そして死ぬ。人生の意味など何もない。生も無意味、死もまた無意味。しかし人生が無意味と判ったことは、混沌の中から一切の虚無をあばきだしたことになる。人間の一生は主人公の友人がくれたペルシャ絨毯のように、織匠が精巧な模様を織り出して行くように、人生という広大な経糸に好みの撚糸を選び出して満足できる模様を作り上げて行けばそれでいい」
鈴木は今までになく険しい表情になり、右手をこめかみに当てた。
「今から思えば、モームの考え方は少し敗北主義的な感じがする。撚糸の選択は人間が自由に選択できるとあるが、自分の人生を一から自分で選択し決めて行かねばならないのなら、多くのプロセスを自分でやっつけなければならなくなるだろう。それができないのなら、黙って小さな模様で我慢しなさいと言っているようだ。人間ひとりでできることは限界があり、みんなと協働して大きなものを作り上げて行くのが大切なことと気付いたのは、会社に入ってだいぶ経ってからのことだった。ペルシャ絨毯をひとりの織匠が織るのか、何人かで織るのか。その考え方によってその人の人生は大きく変わって行くような気がする」
山中は、静かに次の言葉を待った。
「自分の人生は小さな美しい模様を編み上げればそれで良いと言う考えは、少し自分勝手な考えじゃないかと考えを改めたのは最近になってからなんだ。人と一緒にやって行くには軋轢はつきものだ。でもそれだからといって、自分で何もかもやろうとすれば限界がすぐに見えて来る。モームは創作活動のことを言っていると限定すれば正しいのかも知れないが、普通の人の人生をそういうものと考えるなら、その人の人生は独り善がりなものになってしまうだろう。誠実に生きて行くためにはどうすればよいのか。それは独善に陥らないことだ。きみが頭を下げて教えを願い出れば、きっと親切な先輩は丁寧に指導してくれると思うよ。またきみの後輩が入った時には、親身に相談に乗ってあげれば...。きみにクラシック音楽を楽しんでもらおうと思ったが、少ししゃべりすぎてしまった。リクエスト曲も終わったし外に出ようか」
鈴木はカップに残った珈琲を啜った。
ふたりが外に出ると、12月の澄んだ空に満月が輝いていた。明るい月に照らされてふたりの顔が、晴れやかに浮かんで見えた。
「あまりためになる話をしなかったかな」
鈴木が照れながら話すと、
「いいえ。またここに来ます。そして鈴木さんと一緒に聴いた曲を、古本屋で買った文庫本なんかを読みながらひとりで聴いてみます。鈴木さんはまたここに来られるんですね」
と山中がきいた。
「もちろん。でもしばらくは妻と旅行でもいくよ。それじゃあ、お疲れさん」
鈴木はそう言って、その住宅街にある自宅へと向かった。山中は鈴木が路地に折れて姿が見えなくなるまで見ていたが、その間際に微笑んで右腕を挙げるのが見えた。
「おれも鈴木さん位の歳になって、笑顔で人生について語られたら幸福だな。」
そう言って、山中は明日の仕事のために家路を急いだ。