ユリシーズについて
このジェイムズ・ジョイスの小説を大学生の頃に読んだがさっぱりわからず途中で投げ出したが、今年の2月に神田古書街の風光書房で伊藤整他訳を見つけ、これなら何とか(理解の程度は問わないとして)最後まで読めるのではないかと思い購入した。何とか読めるのではと思ったのは、各章についての丁寧な説明があり、登場人物の詳細な説明がある。そして何よりも最後の第18章が、句読点がないだけの熟れた訳文で読みやすそうだったからだ。それでも読み始めると、宗教哲学書「時と永遠」を読んだ時と同様に活字の上を眼がスケートをするようにすべり、さっぱりわからないところ(特にスティーヴン・ディーダラスの友人バック・マリガンの話は難解である)もたくさんあった。それでも3〜4ヶ月掛けて何とかこの淫靡で(他に適当な言葉が見つからなかった)実験的で多くの作家に影響を与えた小説を読み終えることができた。
ユリシーズは意識の流れの手法で書かれているが、先輩作家としては18世紀のロレンス・スターンがいる。彼の「トリストラム・シャンディ」も卑猥な表現が多々あり、深夜放送でそういう話を聞くのを楽しみにしていた私にとっては少し興味を持って読み進んだが、マンネリ化してしまって結末がなく、つまらないものだった。また意識の流れの同時代や後輩の作家としては、「灯台へ」のヴァージニア・ウルフ、「失われた時を求めて」のマルセル・プルースト、「響きと怒り」のウィリアム・フォクナーなどがいるが、今のところ私が読んだのは「灯台へ」だけで、いつかは「失われた時を求めて」を読んでみたいと密かに思っているのだが。
もうひとつ、この小説では実験的なことをいろいろとやっている。その中で私が特に面白いと思ったのが第7章で、新聞記事のような見出しが頻繁に出て来る(ここを読んで面白いと思ったので、自作の短編小説「心にともしび」に取り入れた)。シナリオのような形式で書かれた幻想的な第15章、カトリックの教養問答体のような形式で書かれた第17章そして句読点のない特殊な形式でマリオン・ブルームの意識の流れを描いた第18章、いずれもその独創性において追随するものがない。ただ、内容が一貫してもう少し無難なものであったならと思うのだが、そうするとジョイスのフレーバーが失せてしまうだろうか。
ユリシーズは、ホメロスの「オデュッセイア」のパロディだと大学時代のドイツ語の先生が教えてくれた。ふたりの主人公、レオポルド・ブルームとスティーヴン・ディーダラスのある1日を描いたもので、最後はふたりが一緒にブルームの家に行き、ココアをすする。ブルームは幼くして病死した自分の息子とスティーヴンを重ねるが、スティーヴンがブルームに何を求めてるのかはよくわからない。帰る家がないのでなんとなくブルームの後を着いて行った感じである。ある意味、この後のことは読者の想像に任せると言った感じで、この小説より前の時代の終わり方、大団円というものとは程遠い。そう言う意味でも斬新な小説と言えるのかもしれない。