プチ小説「こんにちは、N先生 116」
私はこの秋母親の介護でどこにも行けなかったので、合間を見て読書と自宅のステレオでのクラシック音楽観賞に楽しみを見出して何とかへこたれないで頑張って来ました。結構硬い目の本も頑張って読んで感想文も書きました。そうしてレジャーとは少しの縁がなかった秋をなんとかやり過ごしました。今年の唯一の楽しみと言える12月7日のLPレコードコンサートがあるのですが、母親の体調がすぐれなければ中止にする可能性も出て来たので、母親に頑張ってほしいと思っています。そんなことを思いながら夕方から寒波がやって来ると予報が出ている中、西側広場でおろしハンバーグ弁当を食べていると後ろから声がしました。
「まだ冷たい風が吹いていないからここで昼ごはんを食べているんだろうけど、そんな薄着で弁当を食べていると風邪を引いてしまうよ」
「ああ、N先生、心配してくださるのですね。でもぼくほ今少し頭を冷やして考えたいことがあるんです。母親の手術が終わったら、転院のことを考えないといけない。転院をしたら、外来診察のことを考えないといけない。それからそのあとどこでリハビリしてもらうかとか・・・やっと老健施設で落ち着いたと思ったら、体調が悪くて病院に外来受診しないといけない。金曜日の診察で問題なければいいのですが、入院となると遊びで東京に行っていいものかと」
「そう言えば、今度のLPレコードコンサートにはディケンズ・フェロウシップの会員で君が親しくしている方が見に来てくれるかもしれないし、ぼくにも来てくれと言っている」
「そうですね、古典入門のページ2『クセノポン ギリシア史』についてで呼びかけましたから、先生も来てくださるのですね」
「うーん、それは体調次第だろう。体調が悪かったら行けないと思うよ」
「そうですか、でしたら、是非風邪を引かないようにして下さい。それからコンサート後は飲み会の予定もあります」
「そうか、LPレコードコンサート以外にもいろいろ楽しみがあるんだったら、ぼくも無事LPコンサートコンサートができるようにと祈っているよ。ところで君はモームの『昔も今も』を読んだようだが、どうだった」
「私は大学を卒業してある医療機関に37年余り勤務しましたが、泌尿器科の先生がモームのファンで帰りの電車の中で『人間の絆』や『月と六ペンス』などの話をしました。その中でその先生はまだ『昔も今も』だけは読んだことがないと言われていました。調べてみるとマキャベリが主人公の歴史小説でしたが、当時は歴史小説にまったく興味がなかったので読むことはありませんでした。でも最近は今まで読みたいと思っていた西洋文学をほとんど全部読んでしまったので、この本を一度読んでみようということになりました。この前に読んだ『女ごころ』が面白かったのも推進力になりました」
「2種類の翻訳が出ているね」
「そうですね、ひとつは2011年に出版された天野隆司訳、もうひとつは1963年に出版された清水光訳です。私はいつもなら古い訳の方が安いのでそちらを読むのですが、天野訳の表紙(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の写真)と読みやすさに惹かれて母校図書館で借りて読んだのでした。でも清水氏は京都大学出身ということは何となくわかるのですが、天野氏は翻訳家ということだけしかわかりませんでした。この本のあとがきにも、「猛暑の日々、頭に氷袋をくくりつけて、『昔も今も』の翻訳にうちこんだ」とか「原稿の売り込みに努めたが、どこの出版社も門前払い、ただ筑摩書房の・・・」と打ち明けておられるところから見ると出版社から依頼があって翻訳したわけではないようです。それに1938年生まれということですから、この本を出版した2011年は73才、同じ出版社から出されたモームの『片隅の人生は』2015年となっています」
「出身大学や年齢は参考程度にするのが良いと思うよ。70代での翻訳でもおかしくないよ。ところで翻訳より内容はどうだったのかな」
「書記官としてチェーザレ・ボルジア公爵(ヴァレンティーノ公)との交渉を任されたフィレンツェの官僚マキャベリが知力を尽くしてボルジアの巧みな攻撃(といっても言葉のやり取りだけですが)を躱して祖国を守ると言う話です。イーモラの街の実力者で資産家のバルトロメオ・マルテッリがボルジアから厚い信任を得ているということで接触しますが、その二人目の夫人アウレリアに一目惚れしてしまい。女好きなマキャベリがこの夫人をものにしようと部下のピエロを巻き込んで知力を尽くします。こちらは空振りに終わってしまいますが、祖国をボルジアの魔の手から守ることはできるという内容の話です。開高健さんがこの歴史小説の大ファンだったようで、他にもこの小説のファンは多いようです」
「で、君はどうなのかな」
「ぼくは以前同じ頃を描いたジョージ・エリオットの『ロモラ』を読んだことがあり、こちらではマキャベリはあまり目立たなくて、ロモラを利用して権力の階段を駆け上がる悪役のティート・メレーマが目立ちます。どちらもフィレンツェを舞台にしていていますが、『ロモラ』で権力の中心にいてあがくのはサヴォナローラで、『昔も今も』ではチェーザレ・ボルジアです。『ロモラ』はハードカバー2段500頁以上もあり読みごたえがありましたが、『昔も今も』は文庫本で360頁ほどです。その分、歴史的な考証が不十分でボルジアがやったことがあまりわかりませんでした。ボルジアはワインに毒をもられたらしくて体調を崩ししかもその毒ワインで彼の後ろ盾の教皇アレクサンドル6世を失い追い詰められて最後は戦死します。彼の権力欲のためイタリア全土が戦闘状態になりますが、マキャベリの知力でフィレンツェは巻き込まれるのを回避しました」
「マキャベリは奥さんがいると言うのにアウレリアをものにしようとした。それに失敗したが、無事任務をやり遂げて故郷フィレンツェに帰って来る。チェーザレ・ボルジアに理想的な君主の能力を見て触発されて『君主論』を書いたり、自分が挫折したバルトロメオ夫人との恋をネタにして戯曲を書いたりしてある意味充実した国を背負っての書記官としての派遣だったんじゃなかっったのかな」
「そうですね、この派遣がなかったら、彼の人生は花開かなかったと思います」