プチ小説「こんにちは、N先生」
私が大学に入って半年ほどしたある日衣笠のバス停でバスが来るのを待っていると、私のクラスでドイツ語の文法とリーダーを
教えておられるN先生が話し掛けて来られました。
「君は確かIクラスのS君だったね。どうだい学生生活を楽しんでいるかい」
「はは、そ、そうですね。先生、ぼ、ぼくは偉い先生から話し掛けられたことがないんで緊張しています。でも、こういう
場合は挨拶から始めるのがいいと思うんです。こんにちは」
「うーむ、どうも君はその場を取り仕切りたがる傾向があるようだな。でもここは君の流儀に合わせるよ。こんにちは。
ところで、さっき君は何か本を読もうとしていたが...」
「ああ、これですか。ジェーン・オースティンの「自負と偏見」です。チャールズ・ディケンズを一通り読み終えたので、
他のイギリス文学も読んでみようかなと思っているんです。ぼくは通学で阪急電車を利用していますが、阪急相川駅から
西院駅までは腰を落ち着けて読書ができるので、いつも文庫本を鞄の中に入れています」
「いままでどんな本を読んだのかな」
「「ディケンズの「クリスマス・カロル」「デイヴィッド・コパフィールド」「大いなる遺産」「二都物語」「オリヴァ・
トゥイスト」「ピクウィック・クラブ」、スィフトの「ガリヴァー旅行記」、デフォーの「ロビンソン漂流記」、
G・エリオットの「サイラス・マアナー」ですね。モームを一時よく読んでいたのですが、やはり19世紀以前の
イギリス文学が性に合っていると最近思うようになって...。ハードカバーの「ピクウィック」は大学図書館で借りました」
そうかいそうかいと言ってN先生はニコニコしながら、黒い鞄から2冊のハードカバーの本を取り出されました。丁度、50番の
バスがやって来たので、先生と私は乗り込みました。私は阪急大宮駅に行く予定でした。先生は、千本中立売で下宿しているから
そこで下車する。あそこはアミューズメントな施設がたくさんあるからねと言われました。
バスに乗り込んで2人掛けの椅子に並んで座ると先生はグレーのハードカバーの本を差し出しながら、これを見てと言われました。
「すごい3段にびっしり活字が並んでいる。「パミラ」というのは活字がびっしり並んでいて読むのが大変そうだな。ここには
会話文がほとんどない。「トリストラム・シャンディ」の方は、黒で塗りつぶしたところやマーブルペーパーが挿入された
ところがある。他にも奇妙な矢印があったり...」
「「パミラ」は当時手紙の手引書を書いていたリチャードソンが自分も小説を書いてみようとして、自分の得意な手紙を物語の
中心に置いて書いたものだ。「トリストラム・シャンディ」はいろいろ奇抜なところがあるが、なにより「意識の流れ」の
源流がここにあると言われる小説だ。この小説に影響を受けて、ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」やヴァージニア・
ウルフの「灯台へ」それからマルセル・プルーストの「失われし時を求めて」などが書かれている。ここにあるヘルマン・
ブロッホの「ウェルギリウスの死」もそういった「意識の流れ」の小説のカテゴリーに入る」
そう言って、N先生は私にスカイブルーのハードカバーの本を手渡されたが、「パミラ」以上に文字がぎっしりならべてあり
改行しないで10ページ以上続くところがしばしばあった。私は思わず、括弧でくくられた会話文と改行がリズムを作り出し
読み続けるための推進力を生み出すと思うのですが、これだととこぼした。
「ははは、でも君、人間の思考というのは「意識の流れ」の文章のように連なったものと考えるのが普通だと思う。確かに小説家は
読者に配慮して括弧や段落を入れてわかりやすくしているが、作家の意志を継続させ続けエネルギーを消失させないためには
「意識の流れ」で記載するところはいろんな障害を取り払っておくのがよいように思う。第一、3人称で情景描写をする時と
心理描写をする時に仕切りを作るのは変だと思わないかい。ああ、もうすぐ千本中立売だ。また帰りに会うこともあるだろう」
「先生、ひとつお訊きしてよろしいですか」
「なんだね」
「先生はドイツ語の先生なのに、なぜイギリス文学や意識の流れを研究されているのですか」
「いいや、違うよ。ぼくの専門はギリシアの英雄叙事詩なんだ。ホメロスの「イーリアス」「オデュッセイア」が中心だが、
ソクラテスの弟子のクセノポンも研究している」
「じゃんけんぽんですか」
と、私が目を丸くして言うと先生は実直に応えられた。
「なんで東京の大学を出て京都まで来て、グーチョキパーを研究しなければならないんだ。でも、またバス停で君に会うのを
楽しみにしているよ」
そう言って、N先生はバスを下りると人ごみの中に姿を消された。