プチ小説「こんにちは、N先生22」

私は天体ショーを見るのが好きで、3年ほど前にあった月食の時には、午後7時すぎに皆既月食になり晴天だったので、阪急総持寺駅近くの安威川の土手で天体観測をしたのでした。今回の皆既月食は10年に1度くらいしかないスーパームーン(地球に月が接近して大きく見える)の皆既月食ということで曇天ではありましたが、午後7時半頃に安威川の土手にやって来たのでした。ベンチも何もないので立ちっぱなしでしたが、ふと上流の方を見ると見たことがあるシルエットの男性が手を挙げてこちらに来ました。私は、なんでここにN先生が来られたのか訝りましたが、先生はそんなことは気にされずに私に話し掛けられました。
「天体観測が好きだと君が言っていたので、きっとここに来ていると思ったよ」
私はN先生に、天体観測が好きだとか、安威川の土手で天体観測をすることを言ったことがないので、なんでーそんなことがわかるのかなと思いましたが、わざわざ私のところに来てくださったので、細かいことは言わずに有難いという気持ちだけを伝えました。
「わざわざ、こんな遠くまで来ていただいてありがとうございます。何か私に話されたいことがあって、ここに来られたのですか」
「そうだよ。君が、人文書院の『ギリシア悲劇全集』全4巻を読み終えたことを風の便りに聞いたのでやって来たのさ」
私は、そのことがなんでわかったんとツッコミを入れたくなりましたが、いつものことなので、そうなんですね、ありがとうございますと言いました。
「楽しかったただろ、ギリシア文学の世界は」
「ええ、楽しかったです。昨年末から、一向にコロナ禍が明ける兆しが見えないので、以前から読みたかったギリシア文学に挑戦してみました。紀元前400年頃にヨーロッパの東の外れにある地域でにわかに隆盛となった文学に読む価値があるのかと正直言って、疑問があったのです」
「でも、実際、三大悲劇詩人だけでなく、ソクラテス、プラトン、アリストテレスという偉大な哲学者もその頃に活躍した。遡れば、ヘシオドス、女流詩人サッフォーもいる。歴史家ヘロドトス、ツキジデスの歴史家も活躍したのは紀元前400年~500年の頃だ。私が研究対象にしているクセノポンもソクラテスの弟子だから活躍したのは紀元前4世紀の頃なんだ」
「でも、ギリシア悲劇でよく取り上げられる、アガメムノーン王やトロイ戦争は紀元前1700年から1200年の間と言われています(紀元前13世紀とも言われる)、それからホメロスが生まれたのが紀元前8世紀頃ということですので、彼が活躍したのは多分紀元前7世紀でしょう。三大悲劇詩人やソクラテス、プラトン、アリストテレスが活躍した紀元前5世紀~4世紀とは大分隔たっているような気がします」
「4大文明が発生した頃から世界の至るところで文明が芽生え、育って行ったんだろう。アテネが隆盛になったのは、ペルシア戦争にギリシア軍が勝利してからだが、ペロポネソス戦争でデロス同盟側のアテナイ(アテネ)が敗北し、ペロポネソス同盟を率いたスパルタが勝利し、趨勢がスパルタへと傾いていく」
「ペルシア戦争に勝利した後がアテネの栄光の時期だったんですね。ところで『ギリシア悲劇全集』に戻りますが、先生はこの本のどういうところを推薦されますか」
「きっと君も気付いていることだろうが、初心者のためにいろいろ配慮されてある。第1巻の最初のところは、ギリシア悲劇の入門書のように鑑賞の仕方が書かれてある。悲劇の構成、劇場の外観、劇の衣装、三大悲劇詩人の特徴などが書かれているので、非常に参考になる。それぞれの悲劇の最初のところに、梗概、登場人物が掲載されている。岩波文庫は、解説もあまりないし、もちろん梗概、登場人物の説明もないので、散文の詩を読んだだけみたいな感じで終わってしまう。どうせなら、『ギリシア悲劇全集』を読むのが、一番いいと思うよ。で、内容はどうだったかな」
「正直言って、アイスキュロスはあまり理解できなかったんです。ソポクレスはわかりやすくて楽しめましたが、少なくてもう少し読んでみたいと思いました。エウリピデスは堪能できた感じですが、表現が過激なのでちょっと怖いなと思いました」
「まあ君のことだから、ホームページの古典入門のページに詳しい感想を書くことだろうから、そちらをじっくり読ませてもらうこととしよう」
「あのー、先生、ひとつ訊いていいですか」
「何かな」
「40年前に先生とこうして話をするようになってから、先生のお勧めの本を読んできました。さすがにクセノポンやソクラテスやその弟子の著作は読めないと思うので、これ以上指導されることがなくなったと思うのですが」
「そうかなー、読書は同じ本を何度も読んだり、その本から刺激を受けて関連著作を読み漁ることだってある。君の西洋文学との付き合いが終わってしまわない限りは私との付き合いは続いて行くのだと思う」
「安心しました。それではこれからもよろしくお願いします」
「そうだね、これからもよろしく」
そう言って、N先生が指さした先にはうっすらと皆既月食の月が見えたような気がしたのでした。