プチ朗読用台本「ピクウィック氏の気概」第1部


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 ロンドンのゴズウェル通りのピクウィック氏の貸部屋は、広くはなかったが、こざっぱりとして快適であったばかりでなく、彼のような才能と観察力に恵まれた人の住むのにはとくに打ってつけのものだった。居間は街路に面した2階、寝室も街路に面した3階にあり、こうして、彼が客間で机に座り、あるいは寝室で化粧鏡の前に立っておろうとも、街路で人間の性格の種々相を考察する機会を与えられていた。彼の下宿のおかみ、バーデル夫人 ― 死亡した税関の役人の未亡人でただひとりの遺言執行者 ― はてきぱきと仕事をする、気持のいい外見をした感じのよい夫人で、生まれながらの料理の天才ではあったが、その才能は研究と長年
の実践ですばらしい技術になっていた。当下宿には赤ん坊も召使いも鳥もいなかった。この家のほかの住人といえば、ただ大柄な男ひとりと小柄な少年ひとりだけだった。大柄な男は下宿人、少年はバーデル夫人の生んだ子供だった。大柄の男は毎晩10時きっかりに家にもどっていて、その時刻になると、きちんと裏の客間の小さなフランス風の寝台にもぐりこんでいた。バーデル坊やの子供らしい遊びと運動は、もっぱら近くの道端とみぞでおこなわれることになっていた。清潔と静けさが家を支配し、そこでは、ピクウィック氏の意向がそのまま掟になっていた。

「バーデル夫人」あのやさしい婦人がながい部屋の掃除の終わりに近づいたとき、とうとうピクウィック氏は言った。

「はい」バーデル夫人は答えた。

「あなたの小さな坊やは、なかなかもどりませんな」

「まあ、バラまではずいぶんながい道のりですもの」バーデル夫人は抗議した。

「ああ」ピクウィック氏は言った。「まったく、そのとおりですな」

 ピクウィック氏はふたたびだまってしまい、バーデル夫人は掃除をまたやりはじめた。

「バーデル夫人」しばらくして、ピクウィック氏は言った。

「はい」バーデル夫人はまた答えた。

「ひとりの人間を食べさすのより、ふたりの人間を食べさすほうが金がかかると思いますかね?」

「まあ、ピクウィックさん」帽子のへりのところまで顔を真っ赤に染めて、バーデル夫人は言った。彼女の下宿人の目の中に一種の結婚に結びつく輝きを見てとったように思ったからである。「まあ、ピクウィックさん、なんというご質問です!」

「うん、だけど、そう思いますか?」ピクウィック氏は尋ねた。

「それはね ―」はたきをテーブルの上におかれたピクウィック氏の肘のほんの近くによせて、バーデル夫人は言った ―「それは、ピクウィックさん、相手の人によりけり、相手が節約家の注意深い人かどうかによりますわ」

「いかにもそのとおり」ピクウィック氏は言った。「だが、わたしが目につけている人は(ここで彼はバーデル夫人をぎゅっとにらんだ)そうした性格を備えているようです。そのうえ、バーデル夫人、世の中のことをよく知っていてとたいそう機敏なんですよ。この鋭さは、私にとって、とても役に立つことでしょう」

「まあ、ピクウィックさん」真紅の色をふたたび帽子のへりまで燃え立たせて、バーデル夫人は言った。

「わたしはそう考えています」自分に関心のある問題を話す時に彼がいつもやるように、だんだん熱をこめて、ピクウィック氏は言った。「わたしは、じっさい、そう考えています。そして本当のことを申せば、バーデル夫人、わたしは決心したのです」

「まあ」バーデル夫人は叫んだ。

「このことであなたにはぜんぜん相談もせず、今朝あなたの坊やを使いに出すまで、ぜんぜんそれを口に出さなかったことは」やさしいピクウィック氏は相手に上機嫌な一瞥を送って言った。「いま、あなたはとても奇妙なこととお思いでしょうね ― え?」

 バーデル夫人はただまなざしで答えられるだけだった。彼女はながいこと、遠くからピクウィック氏を仰ぎ見ていたが、いま突然、彼女は、どんなに途方もなく希望の火を燃やしても考えることができなかった高い場所に引きあげられたのだった。ピクウィック氏は結婚の申し込みをしようとしている ― それに慎重な計画 ― じゃまにならぬようにと、坊やを使いでバラにやってしまったのだ ― なんと考え深く ― なんと思いやりのあることだろう!

「さて」ピクウィック氏は言った。「あなたはどう考えます?」

「おお、ピクウィックさん」興奮で身をふるわせて、バーデル夫人は言った。「本当にありがとうございます」

「それで心配もずいぶんしなくてすむでしょう。どうです?」ピクウィック氏は尋ねた。

「おお、心配なんていうことは考えたこともありません」バーデル夫人は答えた。「そして、もちろん、あなたをよろこばすために、前よりもっと骨を折らねばなりません。それにしても、ピクウィックさん、わたしのさびしさをそうまで考えてくださって、本当にありがとうございます」

「ああ、たしかに」ピクウィック氏は言った。「そのことは少しも考えていなかった。わたしがロンドンにいるときには、あなたといっしょに座るだれかがいるようにしてあげましょう。たしかに、そうしてあげますよ」

「きっと、わたしはとても幸福な女になることでしょう」

「そしてあなたの坊やは ―」ピクウィック氏は言った。

「まあ!」母親としてすすり泣きながら、バーデル夫人は口をはさんだ。

「彼にも仲間をもたせてやりましょう」ピクウィック氏はつづけた。「元気な相手で、坊やが一年で習う遊びよりもっとたくさんの遊びを1週間で教えてくれるでしょう」こう言ってピクウィック氏は静かな微笑をもらした。

「おお、いとしい ー」バーデル夫人は言った。

 ピクウィック氏はギクリとした。

「おお、親切で、やさしく、陽気ないとしい方」バーデル夫人は言い、それ以上なにも言わずに、椅子から立ちあがり、涙を滝のように流し、すすり泣きの嗚咽をあげて、その両腕をピクウィック氏の首にまきつけた。

「いやあ、これは!」びっくりしたピクウィック氏は叫んだ ― 「バーデル夫人 ― いや、これはなんということだ! ― どうか考えてください ー バーデル夫人、いけません ― だれかがやって来たら ―」

「おお、だれでも来るがいいわ」狂気のようにバーデル夫人は叫んだ。「絶対にあなたとはおわかれしませんよ ― いとしい、親切な、やさしい人」こう言って、なおしっかりとバーデル夫人はだきついた。

「これは驚いた!」激しくもがきながら、ピクウィック氏は叫んだ。「だれかがあがって来るようです。おねがいだ、どうかやめてください、やめてください」だが懇願しても。抗議をしても、むだだった。バーデル夫人はピクウィック氏の腕の中で気が遠くなってしまったからである。そしてまだ彼が椅子の上に彼女を横たわらせないうちに、バーデル坊やが部屋に入り、タップマン氏、ウィンクル氏、スノッドグラース氏がそれに続いてはいってきた。

 ピクウィック氏はびっくりして、身動きもならず、口もきけなくなっていた。彼は愛らしい重荷を腕にだき、茫然自失状態で
友人たちの顔を打ちながめながら、挨拶も弁解もしようとしなかった。彼らのほうは彼らのほうで、ピクウィック氏をジッと見つめ、バーデル坊やは坊やで、大人たちの顔をジッと見つめていた。

 ピクウィック・クラブ会員たちの驚きたるや、それは大変なものだった。ピクウィック氏のあわてぶりもひどいものだった。夫人の幼い息子が美しい、心を打つ息子としての愛情を示さなかったら、夫人の停止した活気がもどってくるまで、彼らは同じ棒立ちの状態を続けていたことだろう。とても大きな真鍮のボタンをまき散らしたコール天のぴったりとした服を着けて、彼は最初ドアのところでびっくり仰天して、不安そうに立ちつくしていた。しかし、自分の母親がなにか危害を受けたにちがいないという印象が子供心にだんだんと強くなり、ピクウィック氏を加害者と考えて、彼はおそろしい、なかばこの世のものならぬといったうなり声をあげ、頭からつっかかっていって、彼の腕の力と激しい興奮が出せるかぎりの打撃とつねりで、あの不滅の紳士の背中と脚を襲いはじめた。

「この坊主をつれだしてくれ」ひどい目にあったピクウィック氏は叫んだ。「こいつは手に負えない」

「どうしたんです?」口がきけなくなっていた3人のピクウィック・クラブ会員は尋ねた。

「わからん」いらいらしてピクウィック氏は答えた。「この少年をつれだしてくれ。それから、手を貸して、この女性を下につれてゆくのだ」

「おお、もう元気になりました」弱々しくバーデル夫人は言った。

「わたしがあなたを下におつれしましょう」いつも女性に親切なタップマン氏が言った。

「ありがとうございます ― ありがとうございます」バーデル夫人はうわずった声で叫び、やさしい息子につきそわれて、下につれられていった。

「わからん」タップマン氏がもどってきたとき、ピクウィック氏は言った ― 「あの女性がどうしたのか、わからん。わたしはただ男の召使いをやとうつもりだということを彼女に話しただけなのに、彼女はごらんのとおりのひどい発作を起こしてしまったのだ。じつに異常なことだ」

「とてもね」三人の彼の友人は応じた。

「じつにまずい立場にわたしを立たせてしまった」ピクウィック氏はつづけた。

「とてもね」ちょっと咳払いをしながら、うさん臭そうにたがいに顔を見合わせて、彼の信奉者たちは答えた。

 ピクウィック氏はこの彼らの態度に気がついていた。彼は彼らの不信の気持を察知していた。彼らは明らかに彼を疑っていたのである。

「廊下に男がいます」タップマン氏は言った。

「わたしがきみたちに話した男だ」ピクウィック氏は言った。「今朝、使いをバラに出して彼を呼びにやったのだ。スノッドグラース、彼をここに呼んでくれたまえ」

 スノッドグラース氏はピクウィック氏の希望に従い、サミュエル・ウェラー氏を連れて戻ってきた。

「おお ― きみはわたしを憶えているだろうね?」ピクウィック氏はたずねた。

「まあね」もったいぶったウインクをして、サムは答えた。「あれは妙な事件でしたね」

「あのことはもう、どうでもいい」急いでピクウィック氏は言った。「ほかのことできみと話したいのだからな。座りたまえ。さて、ここにいる紳士方の同意を得て、きみを呼びにやった用件だが......」

「それが重要な点」サムは口をはさんだ「それを早く口に出してください、四分の一ペニーの銅貨を子供が飲み込んじゃったとき、おやじが言ったようにね」

「まず第一に知りたいことは」ピクウィック氏は言った。「きみがいまの仕事に不満があるかどうかということだ」

「その質問に答える前に」ウェラー氏は答えた。「まず第一にこちらで知りたいことは、もっとましな職をあんたがくれようとしているかどうかということですな?」

「わたし自身がきみをやとおうとほとんど決心したのだ」とピクウィック氏が言ったとき、静かな慈愛の陽光が彼の顔にあらわれていた。

「そうなんですか?」

 ピクウィック氏はそうだとうなずいた。

「賃金は?」

「年に12ポンドだ」ピクウィック氏は答えた。

「服は?」

「2着」

「仕事は?」

「わたしの世話をすることとわたしとここにいる紳士方といっしょに旅行をすることだ」

「契約書を書いてください」力を込めてサムは言った。「主人はひとり、条件は承知しましたよ」

「この職を受けてくれるのかね?」ピクウィック氏はたずねた。

「もちろん」サムは答えた。「職の半分くらいしか服がわたしの体に合わなくても、それでいいですよ」

「今晩来れるかね?」

「制服がここにあったら、いますぐでもそれを着ますよ」素早くサムは答えた。

「今晩8時にもう一度ここに来てくれ」ピクウィック氏は言った。


       
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 馬車の準備もほとんど終わっていて、30分すると、彼らは旅路についていた。彼らをむかえようと、ウェラー氏は『天使旅館』の戸口に待っていて、この人の手で彼らはピクウィック氏の部屋に案内されたが、そこに、ウィンクル氏とスノッドグラース氏が少なからず驚き、タップマン氏が少なからずとまどったことに、彼らは老ウォードル氏とトランドルを発見した。

「やあ、きみたち、お元気ですか?」ウィンクル氏とスノッドグラース氏に同時に握手をしながら、老紳士は言った。「クリスマスにはみなさんに来ていただかなければ、とたったいまピクウィック氏に言っていたとこなんです。家では結婚 ― 今度は本当の結婚があるんですからな」

「結婚ですって!」スノッドグラース氏は叫んだ。

「うん、結婚です。でも、心配することはありませんぞ」上機嫌の老人は言った。「それはそこにいるトランドルとベラだけのことですからな」

「おお、それだけのことですか!」胸に重くおおいかぶさっていた苦しい疑惑から解放されて、スノッドグラース氏は言った。「おめでとうございます。ジョーはどうしてます?」

「とても元気ですよ」老紳士は答えた。「いつものとおり眠そうです」

「それにあなたのお母さん、牧師さん、みなさんはどうしてます?」

「まったく元気」

「どこ」勇気をふるい起こして、タップマン氏はたずねた ― 「どこに ― 彼女はいます?」こう言って彼は顔をそむけ、手を目もとに当てた。

「彼女ですって!」いかにもさとりすましたように頭をふって、老紳士は言った。「というのは、わたしの独身の身内のことですかね ― えっ?」

 タップマン氏はコクリと頭をうなずかせ、彼の質問は失意のレイチェルのことだ、ということを知らせた。

「おお、彼女はいってしまいましたよ」老紳士は言った。「彼女は親類の家に住んでいます。とても遠いとこですがね。娘たちの姿を見ていられなくなり、そこで、わたしが彼女をいかせてやったのです。だが、さあ!もう夕食ができてきましたぞ。旅のあとで腹が空いたことでしょう。わたしは腹が空きました。旅をぜんぜんしなくともね。だから、食べはじめることにしましょう」

 食事は十分に楽しまれた。食後一同がテーブルのまわりに座ったとき、ピクウィック氏は、自分が散々な目にあった顛末と悪党ジングルの卑劣なたくらみの手口にかかった失敗談を語った。それを聞いた彼の信奉者たちは激しい憎悪と憤りを覚えずにはいられなかった。

「そしてあの庭で起こしたリューマチで」最後にピクウィック氏は言った。「わたしはいまあしをわるくしているのですぞ」

「わたしも、ちょっと冒険といったものを味わいましたよ」にっこりしてウィンクル氏は言い、ピクウィック氏の求めに応じて、イータンスウィル・インディペンデントの悪意のこもった中傷文とその結果起った彼らの友人の編集者の怒りの話をした。

 この話のあいだに、ピクウィック氏の額は暗くくもり、彼の友人たちはそれに気づき、ウィンクル氏が話を終えたとき、みんなはじっとだまっていた。ピクウィック氏は固めた拳で強くテーブルをたたき、つぎのように語りだした。

「われわれはだれの家にはいっていても」ピクウィック氏は言った。「その人になにか厄介をひきおこすように運命づけられているらしいが、これは驚くべき事実ではないだろうか?だれの家の屋根の下に宿っても、信じきっている女性の心の平和と幸福をかき乱すとは、わたしはたずねるが、わたしについてきている人たちの無思慮、いや、それよりもっとひどい、彼らの心黒さを物語っているのではないだろうか?わたしは言うが、それは ―」

 サムが手紙をもって登場し、ピクウィック氏の雄弁をとめなかったら、彼は、たぶん、そうとうながいこと、その話をつづけていただろう。彼はハンカチで額をぬぐい、眼鏡をはずし、そのくもりをとり、ふたたびそれをかけた。つぎのように言ったとき、彼の声はふだんの物柔らかな調子をとりもどしていた ―

「サム、なにをそこにもっているのだね?」

「たったいま郵便局にいき、この手紙を見つけました。そこに2日間おいてあったもんなんですがね」ウェラー氏は答えた。「それは封緘紙で封印され、宛名は丸っこい字で書かれてます」

「この筆跡は知らんね」手紙を開きながら、ピクウィック氏は言った。「いや、これは驚いた!なんだ、これは?冗談にちがいない。そんなこと ― そんなこと ― 本当であるはずがない」

「どうしたんです?」みながたずねた。

「だれかが死んだんじゃないでしょうな?」ピクウィック氏の顔に浮かんだ恐怖の表情に不安を感じて、ウォードル氏は言った。

 ピクウィック氏はなにも答えず、テーブルの向かい側にその手紙をおしやり、声を出してそれを読んでくれとタップマン氏にたのみ、見るもおそろしいうつろな驚愕の表情を浮かべて、椅子にのけぞりかえった。

 タップマン氏はふるえる声でその手紙を読んだが、次のものがその写しである ―

   1830年8月28日
      コーンヒル、フリーマン小路
    バーデル対ピクウィック

 拝啓
  婚約破棄にかかわる貴下にたいする訴訟を提起し、損害賠償として1500ポンドを貴下に要求するマーサ・バーデル夫人より依頼 を受けたるにつき、民事訴訟裁判所のこの訴訟にて令状が貴下にさしだされることを通報す。折りかえし返信にて、この業務にたずさ わるべき貴下のロンドンの弁護士名を通報ありたし。
                                           敬具
                                     ドッドソンとフォッグ
  サミュエル・ピクウィック殿

 それぞれがとなりの人を、そしてすべての人がピクウィック氏をながめた無言の驚愕の中に、なにかひどく意味深いものがあり、全員が口をきくのをおそれているようだった。この沈黙はとうとう、タップマン氏によって破られた。

「ドッドソンとフォッグか」彼は機械的にくりかえした。

「バーデルとピクウィックか」考え込んでスノッドグラース氏は言った。

「信じきっている女性の心の平和と幸福」ボーッとしたようすで、ウィンクル氏はつぶやいた。

「これは陰謀だ」とうとう口がきけるようになって、ピクウィック氏は言った。「このふたりの貪欲な弁護士、ドッドソンとフォッグの卑劣な陰謀だ。バーデル夫人だったら、絶対にそんなことはしないだろう ー 彼女にはそんなことをする心情はなく ー そんなことをする言い分もない。こっけいなことだ」

「彼女の心情は」ニヤリとして、ウォードル氏は言った。「たしかにあなたがいちばんよくご存知でしょうな。あなたをがっかりさせたくないのですが、彼女の言い分は、われわれのだれより、ドッドソンとフォッグがずっとよく知ってますよ」


「それは金をうばいとろうとするひどいやり方だ」ピクウィック氏は言った。

「そうであればいいのだが」短い、乾上がった咳をして、ウォードル氏は言った。

「下宿人がそこのおかみさんに話しかける以外の話し方で、わたしが彼女に話しているのを、だれか聞いたことがあるだろうか?」一層熱をこめてピクウィック氏はつづけた。「わたしが彼女といっしょにいるのを、だれが見た?ここの友人たちだって ―」

「一回の場合は別にしてね」タップマン氏は言った。

 ピクウィック氏の顔色はさっと変わった。

「ああ」ウォードル氏は言った。「そう、それは重要なことですぞ。そのときには、なにかうろんなことはなかったんでしょうな?」

 タップマン氏はおずおずしてチラリと指導者のほうをながめた。「いやあ」彼は言った。「なにもうろんなことはありませんでした。しかし ― いいですか、それがどうして起きたのかは知らんのですが ― 彼女は確かに彼の腕に抱かれて倒れそうになっていました」

「いや、驚いたこった!」問題の情景の思い出がまざまざと彼の心に思い浮かんだとき、ピクウィック氏は叫んだ。「これは悪い状況が重なったためだ!たしかに彼女はそうだった ― そうだった」

「そして、ピクウィックさんは彼女の苦悶をなぐさめていたんです」そうとう意地わるくウィンクル氏は言った。

「たしかにそうだった」ピクウィック氏は言った。「それは否定しない。そうだったのだ」

「おやっ!」ウォードル氏は言った。「うろんなことはなにもないものとしては、これはちょっと奇妙なこと ― そうじゃないかね、ピクウィック?ああ、ずるいやつだ!」こう言って、食器棚のコップが鳴るほどの声を出して、彼は笑い出した。

「なんというたまたま起きたことのおそろしい結びつきだろう!」両手に顎を乗せて、ピクウィック氏は叫んだ。「ウィンクル ― タップマン ― たったいまわたしの言ったことは、わびるよ。われわれはみんな状況の犠牲者、なかでもわたしは最大の犠牲者なのだ」こう言いわけを言って、ピクウィック氏は頭を両手でかかえた。一方ウォードル氏は、一座のほかの連中にうなずきとウィンクをしてみせるのだった。

「だが、わたしはそれを説明してもらうぞ」顔をあげ、テーブルをたたいて、ピクウィック氏は言った。「このドッドソンとフォッグという男に会おう!明日ロンドンにゆくことにしよう」

「明日はだめだ」ウォードル氏は言った。「きみは足がわるいからな」

「そうそれなら明後日にしよう」

「そのつぎの日は9月1日。とにかくきみはジェフリー・マニングの庭園までわれわれと車でゆき、狩りに参加しなくとも、昼食でわれわれといっしょになると約束してあったはずだが」

「そう、それならその翌日だ」ピクウィック氏は言った。「木曜日だ ― サム!」

「はっ」ウェラー氏は答えた。

「木曜日の朝に、ロンドンゆきのふたつの外の座席をとってくれ、きみとわたしの座席だ」

「よくわかりました」

 ウェラー氏は部屋を出てゆき、両手をポケットにつっこみ、目を地面に伏せて、ゆっくりと使いに出かけていった。

「奇妙な男だな、親方は」ゆっくりと通りを歩いてゆきながら、ウェラー氏は言った。

「彼があのバーデルおかみに言いよるなんて ― しかも小さな男の子がいるのになあ!だが、見たとこしっかりしたこうした老人にはよくあるこった。だけど、こんなことはまさかと思っていたよ ― 親方がこんなことをやるとは!」こんな理屈をこねながら、サミュエル・ウェラー氏は切符発売所のほうに道をまがっていった。


この台本を作成にするにあたり、梅宮創造訳「英国紳士サミュエル・ピクウィク氏の冒険」(未知谷)、北川悌二訳「ピクウィック・クラブ」(三笠書房)から多くの引用をさせていただきました。



「ピクウィック氏の気概」第2部に続く

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