プチ朗読用台本「ピクウィック氏の気概」第2部


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コーンヒルのフリーマン小路のいちばん端のきたない家の一階の道に面した部屋では、ウェストミンスターの王座部、民事訴訟裁判所と大法官庁のふたりの弁護士ドッドソンとフォッグのところにいる4人の書記が座っていた。

 ドッドソンとフォッグの書記の事務所は暗いかび臭い、じめじめしたにおいのする部屋で、書記を俗人の目から守るために高い板ばりの仕切りが設けられ、ふたつの古い木製の椅子、カチカチととても高い音をたてている時計、暦、傘立て、一列にならんだ帽子掛けといくつかの棚、はり紙のついたいくつかの古い松板の箱、さまざまな形と大きさの古びた石のインク壷があり、棚の上にはきたなくよごれた書類の札をつけた束が乗せられていた。法廷への入口になっている廊下につながるガラスばりの戸があり、その戸の外に、サム・ウェラーをうしろにしたがえたピクウィック氏が、手紙が届けられた直後の金曜日の朝に、姿をあらわした。

「さあ、おはいり!」ピクウィック氏が静かにドアをたたいたのに答えて、仕切りのうしろから声が叫んだ。そう声をかけられて、ピクウィック氏とサムは中にはいっていった。

「ドッドソンさんか、フォッグさんが、いまおいでですか?」帽子を手にもち、仕切りのほうに進んでいって、ピクウィック氏はおだやかにたずねた。

「ドッドソンさんは不在、フォッグさんは特別おいそがしくってね」その声が答え、それと同時に声の主の耳にペンをはさんだ頭が、仕切り越しにピクウィック氏をのぞきこんだ。

 それはお粗末な頭で、その薄茶色の髪の毛は注意深く片側にわけられ、ポマードで平らにされて、平らな顔のまわりに小さな半円形の尻尾となってまきつけられ、その平らな顔は一対の小さな目、とてもきたないシャツのカラー、色あせた黒い幅広の襟飾りに飾られていた。

「ドッドソンさんは不在、フォッグさんは特別おいそがしくってね。この頭の持ち主の男が言った。

「いつドッドソンさんはおもどりです?」ピクウィック氏はたずねた。

「わからんね」

「フォッグさんのご用がすむまでに、長く時間がかかりますか?

「わからんね」

「ここにいる人たちは、りっぱな人ですね」ウェラー氏は主人にささやいた。

 ピクウィック氏はそうだとうなずき、仕切りの向こうにいる若い紳士たちの注意をひくために、咳払いをした。

「フォッグはもう暇になったかな?」ジャクソンは言った。

「見てこよう」ゆっくりと椅子からおりて、ウィックスは言った。「フォッグさんにお名前はなんとお伝えしたらいいんです?」

「ピクウィックです」ピクウィック氏は答えた。

 ジャクソンはこの用件で2階にあがり、すぐもどって来て、5分したらフォッグ氏がピクウィック氏にお会いするという伝言を伝え、それをすませてから、自分の机にもどっていった。

「あの男の名前、なんてったっけ?」ウィックスはささやいた。

「ピクウィックだよ」ジャクソンは答えた。「バーデルとピクウィック事件での被告さ」

 事務所にかけられている鐘が急に鳴らされ、ジャクソンはフォッグの部屋に呼ばれ、そこからもどってきて、2階にあがったら、彼はすぐにお会いする、と伝えた。

 そこでピクウィック氏は、サム・ウェラーを下にのこして、2階にあがっていった。2階の裏部屋のドアには、はっきりとした字で、「フォッグ」という堂々とした文字が書かれ、そこにノックし、はいりなさいと言われて、ジャクソンはピクウィック氏を中につれこんだ。

「ドッドソンさんは奥においでかね?」フォッグ氏はたずねた。

「たったいま、おいでです」ジャクソンは答えた。

「ここに来るようにおねがいしてくれ」

「はい」ジャクソンは退いた。

「お座りください」フォッグは言った。「書類はここにあります。わたしの仲間もすぐにここに来るでしょう。そうすれば、このことについてお話しができるわけです」

ピクウィック氏は座席につき、書類をとりあげたが、それを読まずに、その上からのぞき見をして、この実務家をひと調べした。相手は黒い上衣、薄黒い混ぜ色織りのズボン、短い黒いゲートルを着けた初老の、あばた面の、菜食主義者といった感じの男、彼が書き物をしている机の必要欠くべからざる一部で、思考力と感情の点では、机と同様に、皆無といったふうの人物だった。

 数分間だまっていたあとで、太った、いかつい、大声の男のドッドソンがあらわれ、話がはじまった。

「こちらがピクウィックさんです」フォッグが言った。

「ああ!あんたがバーデルとピクウィック事件の被告ですな?」ドッドソンはたずねた。

「そうです」ピクウィック氏は答えた。

「わかりました」ドッドソンは言った。「ところで、そちらのご提案はどんなものです?」

「ああ!」手をズボンのポケットにつっこみ、椅子に体をのけぞらせて、フォッグは言った。「そちらのご提案はどんなものです、ピクウィックさん?」

「しっ、フォッグ」ドッドソンは言った。「ピクウィックさんの言い分を聞くことにしよう」

「みなさん、わたしがここに来たのは」ふたりを静かに見つめて、ピクウィック氏は言った。「みなさん、わたしがここに来たのは、先日のあなた方のお便りを受けとったときのわたしの驚きをお伝えし、わたしにたいしてどんな訴訟理由をお持ちなのか、おたずねするためです」

「訴訟理由 ―」フォッグがここまで叫んだとき、ドッドソンは彼を抑えた。

「フォッグさん」ドッドソンは言った。「わたしが話そうとしているのですぞ」

「これは失礼しました、ドッドソンさん」フォッグは言った。

「訴訟理由については」その態度に道徳的昂揚を示して、ドッドソンはつづけた。「きみは自分自身の良心と自分自身の感情にたずねてみたらいいでしょう。われわれは、いいですか、われわれは依頼人の陳述にもとづいて行動しているだけです。その陳述は真実かもしれん、あるいは、偽りのものかもしれん。それは信用できるものかもしれん、あるいは、信用できんものかもしれん。だが、もしそれが真実であり、もしそれが信用できるものであったら、われわれの訴訟理由は強く、ゆるがしがたいものであると、わたしはちゅうちょせず断言できます。あなたは不幸な人かもしれん、あるいは、たくらみのある人かもしれん。だが、宣誓した陪審として、あなたの行為に関する意見を発表せよと求められたとしたら、わたしはちゅうちょせず、それに関する意見はひとつしかないことを主張しますぞ」ここでドッドソンは義憤を感じている人といったふうに胸をはって威厳を示し、フォッグをながめたが、フォッグはポケットの中に両手をさらに深くつっこみ、いかにもさとりすましたふうに頭をうなずかせ、心から賛成といった語調で「もちろんそうです」と言った。

「わかりました」顔に苦痛の色をそうとう濃く浮かべて、ピクウィック氏は言った。「こう申すことは許してくださるでしょう。この事件に関するかぎり、わたしはじつに不幸な人間です」

「そうであればと思いますよ」ドッドソンは答えた。「そうかもしれぬと考えています。もし告訴を受けている罪をおかしていないとしたら、あなたはこの世のどんな人より不幸な人です。フォッグさん、あなたの意見はどうです?」

「まったくあなたと同意見ですな」疑い深そうな微笑みを浮かべて、フォッグは答えた。

「この訴訟を開始した令状は」ドッドソンはつづけた。「規則にもとづいて発行されたものです。フォッグさん、令状申請書はどこにありますかな?」

「ここにありますよ」羊皮紙のおおいのついた四角な綴りをわたして、フォッグは言った。

「ここに記載があります」ドッドソンはつづけた。「『ミドルセックス、サミュエル・ピクウィックにたいする未亡人マーサ・バーデルの令状、損害賠償金、1500ポンド。原告の代理人、ドッドソンとフォッグ、1830年8月28日』ぜんぶ規則にもとづき、完全なものです」ドッドソンは咳払いをし、フォッグをながめたが、フォッグも「完全なものです」と相槌を打った。そう言って、ふたりともピクウィック氏のほうをながめた。

「すると」ピクウィック氏は言った。「この訴訟をつづけようとなさるのがそちらのご意図と、当方は理解すべきなのですね?」

「理解するですって?ええ、たしかにそう理解して結構ですぞ」威厳が許すかぎりの微笑みといったものを浮かべて、ドッドソンは答えた。

「そして、損害賠償金はじっさい1500ポンドとなっていると理解しても?」ピクウィック氏はたずねた。

「その理解につぎのわたしの保証をつけくわえてもいいですぞ。すなわち、依頼人をこちらで説得できたら、その金額は3倍になっただろうということもね」ドッドソンは答えた。

「しかしバーデル夫人はとくに言っていたと思いますがね」ドッドソンをチラリ見ながら、フォッグは言った。「びた一文だって妥協はしないとね」

「もちろん、そうだ。あなたのほうで条件を提示されないのですから」右手に一枚の羊皮紙を示し、左手でその紙の写しをやさしくピクウィック氏に押しつけて、ドッドソンは言った。「この令状の写しをあなたにあげておいたほうがいいでしょう。原文はここにあります」

「よくわかりました。みなさん、よくわかりましたよ」怒り立つと同時に体も立ちあがらせて、ピクウィック氏は言った。「いずれ当方の弁護士からこちらになんとか連絡をとることにしましょう」

「そうしていただければ幸いですな」両手をこすりながら、フォッグは言った。

「とてもね」ドアを開いて、ドッドソンは言った。

「そしてわたしが失礼する前に、みなさん」踊り場でグルリと向きなおって、興奮したピクウィック氏は言った。「一言言わせてもらいましょう、すべての恥ずかしい、さもしいやり方のうちで ―」

「ちょっと待ってください、ちょっと」とても慇懃にドッドソンは口をはさんだ。「ジャクソン君!ウィックス君!」

「はい」階段の下に姿をあらわして、ふたりの書記は答えた。

「ただ、きみたちにこの紳士のおっしゃることを聞いてほしいだけだ」ドッドソンは答えた。「さあ、どうぞおつづけください ― すべての恥ずかしい、さもしいやり方と言っておいででしたな?」

「そうですとも」カンカンになって、ピクウィック氏は言った。「すべての恥ずかしい、さもしいやり方のうちで、これがいちばんひどいものだ、と言ったんです。わたしはそれをくりかえして申しますぞ」

「ウィックス君、聞いたね?」ドッドソンは言った。

「この言葉は忘れないだろうね、ジャクソン君?」フォッグは言った。

「たぶん、あなたはわれわれをいかさま師と呼びたいんでしょうな」ドッドソンは言った。「もしそうなら、どうぞそう呼んでください。さあ、どうぞ」

「呼びますとも」ピクウィック氏は言った。「あなたがたはいかさま師ですぞ」

「よくわかりました」ドッドソンは言った。「下のそこで聞こえるだろうね、ウィックス君?」

「はい、聞こえます」ウィックスは答えた。

「聞こえなかったら、もう一歩か二歩あがったほうがいいよ」フォッグは言った。「さあ、どうぞつづけてください、つづけてください。あなたはわれわれを泥棒と呼んだほうがいいでしょう。さもなければ、われわれに乱暴したいのでしょう。もしよかったら、どうぞそれをしてください。こちらではほんの少しの抵抗もしませんよ。さあ、それをしてください」

 フォッグがいかにも挑発的にピクウィック氏の固めた拳のとどくところに体をさしだしたので、サムがそれをとり抑えなかったら、ピクウィック氏は相手のこの熱心な要望に応じるところだった。サムはこのやり合いを耳にして、事務所から飛び出して、階段をのぼり、主人の腕をつかんだ。

「こっちに来てください」ウェラー氏は言った。「羽根つきはとってもおもしろい遊びですよ。あなたが羽根、ふたりの弁護士が羽子板でないときにはね。しかし、そうなると、その遊びは刺激的、楽しくなくなっちゃいます。さあ、こっちへ来てください。だれかをやっつけて気を晴らしたいんでしたら、小路に出ていって、わたしをやっつけたらいいでしょう。だが、ここでそれをやると、大損するだけのことになりますよ」

 こう言って、相手に一向おかまいなし、ウェラー氏は主人を階段から引きおろし、小路をとおりぬけ、無事にコーンヒルに彼をつれだしてから、彼のあとにつづき、どこにでも主人のあとについてゆく態勢を示した。

 ピクウィック氏は呆然として歩きつづけ、市長官邸の向こう側を突っ切り、足をチープサイドに向けた。サムがどこにゆくのだろうと考えはじめていたとき、彼の主人はうしろをふりかえって言った ―「サム、わしはすぐにパーカーさんのところへゆくつもりだ」

 勾配が急でよごれた階段をふたつのぼっていったあとで、彼は自分の予想が正しかったことを知った。パーカー氏の事務所の「外のドア」は閉じられ、ウェラー氏がそこを何回か蹴飛ばしたあとにつづいたおそろしい沈黙は、そこの職員がもう帰っていることを伝えていた。

「これはいかにも楽しいことだな、サム」ピクウィック氏は言った。「1時間の猶予もなく、彼と会わなければならんのだからね。このことを専門家に打ち明けたという満足感がなかったら、今晩は一睡もできないことだろう」

「婆さんが階段をあがってきます」ウェラー氏は答えた。「だれかを見つける場所を、たぶん、知ってるでしょう。やあ、お婆さん、パーカーさんのとこのひとは、どこにいますかね?」

「パーカーさんとこの人は」階段をのぼったあとで息をつこうと立ちどまって、痩せた、風采の悪い老婆が言った。「パーカーさんとこの人は帰っちまいましたよ。わたしはいま、事務所の掃除をするところでね」

「きみはパーカーさんにやとわれている人かね?」ピクウィック氏はたずねた。

「わたしはパーカーさんのところの洗濯女ですよ」老婆は答えた。

「お婆さん、パーカーさんをどこでさがしたらいいか、知っていますかね?」ピクウィック氏はたずねた。

「知りませんよ」つっけんどんに老婆は答えた。「いま、ロンドンにおいでじゃないんですからね」

「それは残念なこと」ピクウィック氏は言った。「彼の書記はどこにいます?知ってますか?」

「ええ、知ってますよ。でも、それをしゃべっても、礼を言われないことね」洗濯女は言った。

「彼にとくに折り入っての話があるんですがね」ピクウィック氏は言った。

「明日の朝じゃいけないんですかね」女は言った。

ちょっと具合がわるくてね」ピクウィック氏は答えた。

「ええ、いいですよ」老婆は言った。「とくに折り入ってということだったら、彼の居場所を教えてあげなければね。それを言っても、べつにどうということもないだろうからね。『かささぎと切り株』という旅館にいき、酒台のとこでラウテンという人をたずねたら、きっと彼に教えてもらえますよ。その人がパーカーさんの書記なんだからね」


 酒台のところにピクウィック氏が姿をあらわしたとき、初老の女性がそこの仕切りから出てきて、彼の前に立った。

「ラウテンさんはここにおいでかね?」ピクウィック氏はたずねた。

「ええ、おいでですよ」おかみは答えた。「ちょっと、チャーリー、この方を奥のラウテンさんにご案内して」

「いまはだめですよ」赤毛のおぼつかない足どりの給仕の少年は言った。「ラウテンさんは喜劇の歌を歌っていて、そんな人なんか追いだしちゃいますからね。すぐにそれは終わりますよ」

 赤毛の給仕の少年の言葉が終わるか終わらないかに、いっせいにテーブルをたたく音とコップの鳴る音が、その瞬間にその歌が終わったことを伝えた。そしてピクウィック氏は、酒場でゆっくりやるようにサムに言って、ラウテン氏のところに案内されていった。

「紳士の方があなたにご用があるんですがね」と言うと、テーブルの上座で椅子に座っていた太った顔をした若い男が、ちょっとびっくりして、声がかかった方向を見た。彼の目がまだ見たこともない人の上にとまったとき、彼の驚きは減るどころではなかった。

「失礼ですが」ピクウィック氏は言った。「それにほかの紳士の方々をおさわがせして恐縮ですが、わたしは特別な用件で来たのです。部屋のこの隅で5分あなたとお話をすることができたら、とてもありがたく思います」

 太った顔をした若い男は立ちあがり、部屋の目立たぬ片隅でピクウィック氏のそばに椅子を引いてきて、彼の苦情話にジッと耳を傾けていた。

「ああ」ピクウィック氏の話が終わったとき、彼は言った。「ドッドソンとフォッグ ― やつらの商売はいんちき ― すごい商売人ですよ、ドッドソンとフォッグはね」

 ピクウィック氏はドッドソンとフォッグのいんちきを認め、ラウテンは話をつづけた。

「パーカーはロンドンにはいません。来週の末まで帰って来ないでしょう。でも訴訟の弁護をご希望で、書類の写しをわたしにおわたしくださったら、彼が帰ってくるまでに必要なことはぜんぶしておきましょう」

「それこそ、わたしがここにやって来た用件なのです」書類を手わたしながら、ピクウィック氏は言った。「なにか特別な用事でもできたら、イプスイッチの郵便局あてにお便りをください」

「よくわかりました」パーカーの書記は答えた。



       4

 ピクウィック氏と彼の友人たちがロンドンにもどってきてから10日か2週間たったある夕方の7時半ころに、真鍮のボタンのついた褐色の上衣を着た男が、事務所のひとつにあわただしくはいっていったが、そのながい髪の毛は細心の注意を払ってすり切れた帽子のへりのまわりに卷きつけられ、そのくすんだとび色のよごれたズボンが編上げ半長靴の上でピッタリと肌についてはかれていたので、膝がもうすぐにもとび出しそうな格好になっていた。彼は上衣のポケットから細ながい羊皮紙の切れをひっぱりだしたが、その上に、監督の長の役人のわけのわからぬ黒の印がおされてあった。彼はそこから同じ大きさの4枚の紙を引き出したが、それは名前を書き込むために空所のある羊皮紙の印刷した写しで、彼はこの空所に名前を書きこんでから、5枚の文書をポケットにしまい、せかせかとそこから出ていった。

 神秘的な書類をポケットにおさめた褐色の上衣の男は、ドッドソンとフォッグ事務所のジャクソンだった、しかし、彼がやってきたところから事務所にはもどらずに、彼は足をサン・コートに向け、まっすぐ『ジョージと禿鷹旅館』にはいっていって、ピクウィックという人物が中にいるかどうかをたずねた。

「トム、ピクウィックさんの召使いの人を呼んでちょうだい」『ジョージと禿鷹旅館』の酒場の女中は言った。

「心配することはないよ」ジャクソン氏は言った。「わたしは用件があって来たんだ。ピクウィックさんの部屋を教えてくれたら、わたしが自分であがっていくからね」

「お名前は?」給仕がたずねた。

「ジャクソンだよ」書記は答えた。

 給仕はジャクソン氏の名前を伝えるために階段をあがっていったが、ジャクソン氏はそのあとにピタリとついてゆき、給仕がまだ一言も言わないうちに部屋にはいっていって、給仕に面倒をかけはしなかった。

 ピクウィック氏は、その日、彼の3人の友人を晩餐にまねき、彼らがみな炉のまわりに座って、ぶどう酒を飲んでいたとき、ジャクソン氏が姿をあらわした。

「ご機嫌いかがです?」ピクウィック氏にうなずいて、ジャクソン氏は言った。

 ピクウィック氏はお辞儀をし、そうとうびっくりしているふうだった。ジャクソン氏の顔を彼は忘れていたからである。

「ドッドソンとフォッグの事務所から来たんです」説明的な調子でジャクソン氏は言った。

その名を聞いて、ピクウィック氏はグッときた。「わたしの弁護士のところへいってください。グレイ・インのパーカー氏ですがね」彼は言った。「給仕君、この方を外にご案内してくれ」

「失礼ですが、ピクウィックさん」ゆっくりと帽子を床の上におき、ポケットから羊皮紙の切れを出して、ジャクソンは言った。「こうした事件で、これは、ピクウィックさん、書記か代理人がおこなう個人的サービスなんですよ ― すべての法律上の形式で、用心に越すことはないでしょうが?」

 ここでジャクソン氏は羊皮紙にチラリと目をやり
、両手をテーブルにつき、愛想のいい説得的な微笑みを浮かべてあたりをながめまわして、言った。「さあ、さあ、こんなちょっとしたことで文句を言うのはやめにしましょう。あなた方のうちで、スノッドグラースという名前の方はどなたです?」

 こうたずねられて、スノッドグラース氏はじつにいつわらぬ、はっきりとしたふうにギクリとしたので、それ以上の返事は必要のないことになった。

「ああ、そう思ってましたよ」前よりもっと愛想よく、ジャクソン氏は言った。「あなたにご面倒かけなければならないちょっとしたことがあるんですがね」

「わたしにですって!」スノッドグラース氏は叫んだ。

「バーデルとピクウィック事件で、原告のための召喚状にすぎないんですがね」1枚の紙切れを選りだし、チョッキのポケットから1シリングとりだして、ジャクソンは答えた。「それは開廷期になると来るでしょう。2月の14日と思いますがね。それは特別な陪審事件で、書類では10行のもんです。これはあなたのもんです。スノッドグラースさん」こう言いながら、ジャクソンは羊皮紙をスノッドグラース氏の目の前に示し、紙切れと1シリングを彼の手にスッとわたした。

 タップマン氏は、だまったままびっくりして、これをながめていたが、ジャクソンは、さっと彼のほうに向きなおって、言った。「もし勘ちがいでなけりゃ、あんたのお名前はタップマンでしょう、どうです?」

 タップマン氏はピクウィック氏をながめたが、ピクウィック氏のかっと見開いた目に自分の名前を否定せよといったようすもなかったので、言った ―

「そう、ぼくの名前はタップマンですよ」

「そうして、もうひとりの方はウィンクルさんですな?」ジャクソンは言った。

 ウィンクル氏はそうだと口籠りながら答え、ふたりの紳士は巧妙なジャクソン氏によって紙切れと1シリングをそれぞれわたされた。

「さて」ジャクソンは言った。「面倒なやつだとわたしのことをお思いでしょうが、もし都合がわるくなかったら、もうひとり要るんです。ピクウィックさん、ここにサミュエル・ウェラーという名があるんですがね」

「給仕君、わしの召使いをここによこしてくれたまえ」ピクウィック氏は言った。そうとうびっくりして、給仕は引きさがり、ピクウィック氏は身ぶりでジャクソンに座れと伝えた。

 
苦しい沈黙がつづいたが、それはとうとう、罪なき被告ピクウィック氏によって破られた。

「わたしは思うのですがな」話しながらグッグと腹が立ってきて、ピクウィック氏は言った。「わたしは思うのですがな、わたし自身の友人たちの証言でわたしを罪人に仕立てようというのが、きみの主人どもの意図なんですな?」

 ジャクソン氏は人さし指で鼻の左側を何回もたたき、自分がここに来たのは牢獄の秘密をもらすためではないということを伝え、ふざけまじりに答えた ―

「知りませんな。わかりませんよ」

「もしそのためでなかったら」ピクウィック氏はなおも言った。「なんの理由で召喚状が彼らにわたされたんです?」

「なかなかうまい策略ですな、ピクウィックさん」ゆっくりと頭をふりながら、ジャクソンは答えた。「だが、それはだめですよ。それをやったって、べつにわるいことはありませんがね、わたしからなにか引っぱりだそうったって、だめですよ」

 ここでジャクソン氏はもう一度みなに微笑を投げかけ、鼻の先に左の親指を当てがい、右手で架空のコーヒーひきを動かし、それでじつに優雅な無言劇を演出したが、それは世間ではあざけりを示す、ひき臼の演技と名づけられているものだった。

「だめ、だめ、ピクウィックさん」最後にジャクソンは言った。「われわれがなぜこの召喚状をわたしたか、パーカーとこの者だったら見当がつくでしょう。もしそれができなかったら、裁判が来るまで待っているんですな、そのとき、それがわかりますからね」

 ピクウィック氏はこの好ましからざる来客に極度の嫌悪の一瞥を投げ、このときサムが登場してそれをとめなかったら、ドッドソン氏とフォッグ氏の頭上にすごいのろいの言葉を投げつけたことだったろう。

「サミュエル・ウェラーですかね?」さぐるようにしてジャクソン氏は言った。

「このながい年月のあいだで、あんたが言った本当のことのひとつですよ」実に落ち着き払った態度で、サムは答えた。

「ウェラーさん、これがあなたへの召喚状です」ジャクソンは言った。

「それはふつうの言葉で言ったら、なんですね?」サムはたずねた。

「これが原本です」要求された説明はせずに、ジャクソンは言った。

「どれが?」サムはたずねた。

「これです」羊皮紙をふりながら、ジャクソン氏は答えた。

「おお、それが原本なんですね、えっ?」サムは言った。「うん、原本にお目にかかれたことは、とてもうれしいこと。そいつは満足いくことだし、とても気が楽になりますからな」

「そして、これが1シリング」ジャクソン氏は言った。「それはドッドソンとフォッグからのもんです」

「贈り物を見ず知らずのこのおれにくれるなんて、ドッドソンとフォッグはじつに気前のいいこってすな」サムは言った。「そいつはじつにりっぱなご挨拶と思いますな。価値のあるものに出逢えば、その報い方を知ってるってえことは、彼らにとっても名誉なこってすからね。そればかりでなく、そいつは人を感動させるもんですよ」

 ウェラー氏がこう言ったとき、上衣の袖で右のまぶたをちょっとこすり、そのさまは、家庭悲劇を演じている役者の名演技そのものだった。

 ジャクソン氏はサムの仕草にそうとうとまどっているふうだったが、召喚状をわたし、これ以上なにも言うことがなかったので、外見上彼がいつも手にもって運んでいる片方の手袋をはめるふりをし、進行状況を報告するために、事務所にもどっていった。

 ピクウィック氏は、その晩、ほとんど眠らなかった。バーデル夫人の訴訟の問題に関して、とても不愉快な思い出が新たに湧いてきたからである。翌朝、彼は早く朝食をすませ、サムにいっしょにくるように命じて、グレイ・イン・スクウェアに向けて出発した。

 ラウテンはドアを半分開けたままにして、踵のない靴をはき、指のない手袋をはめ、色のさめた服をまとって、みじめなふうをした男と話をしていた。その痩せた、心配にやつれた顔には、貧困と苦痛 ― ほとんど絶望 ― があらわれていた。彼は自分の貧乏を身に感じていた。ピクウィック氏が近づいたとき、彼は階段のほの暗い側に身をひそめたからである。

「それはとても残念なことです」溜め息まじりに見知らぬ男は言った。

「とてもね」ペンで自分の名を戸口の柱に書き、羽根でそれをふき消しながら、ラウテンは答えた。「彼への伝言でも伝えましょうか?」

「彼はいつもどるとお思いです?」見知らぬ男はたずねた。

「まったくわかりませんな」見知らぬ男が目を伏せたとき、ピクウィック氏に目ばたきして、ラウテンは答えた。

「彼をここで待っていてもむだとお考えなんですね?」事務所を物思いに沈んだふうにのぞきこんで、見知らぬ男はたずねた。

「おお、そうです。むだなことははっきりしてますね」戸口の中央部に少し体をうつして、書記は答えた。「今週もどらないことはたしか、来週もどるかどうかも、よくわかってはいません。一度ロンドンを出たら、パーカーが急いで帰ってくるなんて、絶対にないことですからな」

「ロンドンを出たんですって!」ピクウィック氏は言った。「いや、じつに残念なことだ!」

「ピクウィックさん、お帰りにならないでください」ラウテンは言った。「あなたあての手紙があるんです」見知らぬ男は決心がつきかねているふうで、もう一度目を伏せたが、書記は、まるでなにかおもしろいことが進行中といったふうに、ピクウィック氏にひょうきんな目くばせをしていた。しかし、それがなにかは、ピクウィック氏にはぜんぜん通じなかった。

「ピクウィックさん、中におはいりください」ラウテンは言った。「そう、ウォッティさん、伝言をお伝えしましょうか。それとも、またおいでになりますか?」

「わたしのことでどんな処置がとられているか、伝えておいていただきたいと連絡してください」その男は言った。「おねがいします、それだけはしてください、ラウテンさん」

「ええ、ええ、忘れませんよ」書記は答えた。「ピクウィックさん、中におはいりください。ウォッティさん、さようなら。きょうは散歩にいい日ですよ、そうじゃありませんかね?」見知らぬ男がまだぐずぐずしているのを見て、彼は主人について中にはいるようにとサム・ウェラーをさしまねき、その男の顔へまともにドアを閉めてしまった。

 ラウテンは言った。「彼の事件は大法院でまだ4年もたっていないんですからな。週に2回は必ずやって来て、ごねまわしているんです。ピクウィックさん、こちらにおいでください。パーカーは奥にいますよ。彼はあなたとお会いするでしょう。すごく寒いですな」書記は先に立って主人の私室に進んでゆき、ピクウィック氏の名前を伝えた。

「ああ」せかせかと椅子から立ちあがって、小男のパーカー氏は言った。「やあ、あなたの事件でなにかありましたかね、えっ?フリーマン小路のわれわれの友人たちについて、なにか新しいことでも?彼らが眠ったままでいないことは、知ってますよ。ああ、彼らはなかなか抜け目のない男たちですからな、まったく、なかなか抜け目がないんですよ」

 話を終えたとき、この小男は、ドッドソン氏とフォッグ氏の抜け目なさにたいする賛辞として、かぎタバコをひとつまみグッとかいだ。

「彼らはすごい悪党ですよ」ピクウィック氏は言った。

「そう、そう」小男は言った。「それは見解の問題ですからな。われわれは言葉についての議論をしたくはありませんな。というのも、こうした問題を専門的な目であなたに見ろと言っても、むりな話ですからね。そう必要なことはもうぜんぶしてあります。上級法廷弁護士のスナビン氏は確保してありますよ」

「その人はりっぱな人ですかね?」ピクウィック氏はたずねた。

「りっぱな人かですって!」パーカー氏は答えた。「いいや、驚いた。上級法廷弁護士のスナビン氏はその職業では最高峰のもの。法廷のだれより3倍も仕事をかかえ ― あらゆる事件に関係しているんです。これは外で言ってもらっては困りますがね、われわれ ― この職業に従事しているわれわれは、法廷を牛耳ってるのは上級法廷弁護士のスナビン氏だ、と言ってるほどです」

 これを伝えたとき、小男はかぎタバコをもうひとつまみつまみ、なにかわからぬふうに、ピクウィック氏にうなずいた。

「ドッドソンとフォッグはわたしの3人の友人を召喚しているんですよ」ピクウィック氏は言った。

「ああ、もちろん、そうでしょうな」パーカー氏は答えた。「重要な証人です。むずかしい立場に立ったあなたの姿を見てるんですからな」

「だが、バーデル夫人は自分で気絶したんですよ」ピクウィック氏は言った。「彼女は自分の身をわたしの腕に投げかけてきたんですよ」

「いかにもありそうなことですな」パーカー氏は答えた。「いかにもありそうなこと。いかにも自然なことです。まったくそのとおり、まったくね。でも、だれがその証明をします」

「彼らはわたしの召使いも召喚しました」問題をそらして、ピクウィック氏は言った。パーカー氏の質問はそうとう彼をギクリとさせたからである。

「サムですか?」パーカーはたずねた。

 ピクウィック氏はそうだと答えた。

「もちろん、そうですよ、もちろん。彼らがそうするのは、知ってました。ひと月前にだって、それは言うこともできましたよ。いいですか、あなたの事件を弁護士にゆだねたあとで、それを自分の手にひきもどそうとなさるのなら、その結果もあなたは引き受けなければなりませんよ」ここでパーカー氏は意識的に威厳のあるふうをして胸をはり、シャツのひだからタバコのくずを払い落した。

「そして、判決がわたしに不利だったら?」ピクウィック氏はたずねた。

 パーカー氏はニヤリとし、かぎタバコをながいことかぎ、火をかきまわし、肩をすくめ、意味深長にだまったままでいた。

「その場合にわたしが損害賠償金を払わねばならんと言われるのですな?」そうとうきびしい態度でこの以心伝心的返答をジッと見ていたピクウィック氏は言った。

 パーカー氏は用もないのにまた火をかき立て、「そうだと思いますな」と答えた。

「では、失礼ですが、申し上げておきましょう。賠償金は断じて払いませんぞ」断固たる態度でピクウィック氏は言い放った。「パーカー、びた一文もね。わたしの金は1ポンド、1ペニーだって、ドッドソンとフォッグにはわたしませんぞ。それが、慎重に考えたわたしの最終的な決心です」自分の意図の決定的なことを強調するために、ピクウィック氏は目の前のテーブルをドシンとたたいた。

「よくわかりました、よくわかりました」パーカー氏は言った。「もちろん、あなたがいちばんよくご存じなんですからな」

「もちろん、そうです」急いでピクウィック氏は言った。



この台本を作成にするにあたり、梅宮創造訳「英国紳士サミュエル・ピクウィク氏の冒険」(未知谷)、北川悌二訳「ピクウィック・クラブ」(三笠書房)から多くの引用をさせていただきました。



「ピクウィック氏の気概」第3部に続く


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